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2019年11月

2019年11月30日 (土)

チリ国の砂漠の町・アリカへ行く

  


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*上段の写真は、イキケのプラット広場にある時計台です。
時計台は、1877年に造られて、町のシンボルです。
かって、イキケが繁栄を極めた名残りです。

*下段の写真は、イキケのプラット広場で寛ぐアベックです。
私は、スペイン語の勉強も兼ねて、二人と楽しい会話を交換しました。
プラット広場の周辺には、市立劇場、銀行など荘厳な建物が並んでいました。
プラット広場は、開放感のある広場で、市民の憩いの広場です。

 

 

 






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*上段の写真は、アリカの海水浴場=ラ・リセラ海岸です。
チリ国の海水は、南極から流れて来る冷たい海流のために、
海水温度は低く、ビーチは沢山にあっても、泳げるのはアリカ海岸だけです。
(1999年12月6日撮影)

*下段の写真は、アリカの町から、イキケの町へ行く乗り合いバスの中から、
砂漠を走る自動車道を撮影しました。車道の両側は、延々と続く砂漠でした。
アリカから、イキケまで、片道5時間、往復10時間の旅でした。
この砂漠の旅をするのが、イキケへ行く目的の一つでした。



 

 

 






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*上段の写真は、アリカの町を囲む砂漠です。

*下段の写真は、地上絵のある丘です。
丘の斜面に、動物の地上絵が描いてあります。
手前は、アサバ村の植物園です。



 

 

 






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*上段の写真は、アリカの丘陵の頂上に立つチリ国旗です。
眼下に、アリカの市街を見ることが出来ました。
アリカは砂漠に囲まれた町でした。
アリカは、かって、ボリビア国のポトシ鉱山の銀鉱石をヨーロッパへ運ぶ港でした。
ペルーの国境に接して、交通の要所でした。

*下段の写真は、アリカの市街です。白い壁の家が並んでいます。

私の日記:1999年12月6日、月曜日
朝、ホテルから、タクシーに乗って、ラ・パス郊外のエル・アルト空港へ行った。
ラン・チリ航空機に乗って、チリ国アリカへ飛んだ。
アリカは砂漠の町だった。国境の町だった。
ホテルは、ディエゴ・デ・アルマグロに決めた。
一泊料金は、25ドル=約3000だった。
まず、ホテルで、観光タクシーを20ドル=約2400円で雇った。
運転手は、英語は全く話せなかった。スペイン語で、お互いの意思の疎通を図った。
サン・マルコス教会、アリカ丘陵、ラ・リセラ海岸、アサバ渓谷、地上絵などを
見物した。



 

 

 






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*上段の写真は、ファッショナブルなお店がある坂道ですが、
ボリビア国政府の命令により、国政選挙日のために、どのお店も休業中でした。

*下段の写真は、国政選挙日に、暴動を警戒する兵隊さんです。

ボリビア国の首都ラパスへ行く

 

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*上段の写真では、ラ・パスの町が、坂の多い町だということが分かります。

手前の建物は、町の中心街の、比較的立派な建物ですが、
遠方に見える斜面の住宅街には、貧しい人々が暮しています。
質素な掘っ立て小屋の住宅が並んでいました。

*下段の写真は、カテドラル=サン・フランシスコ教会です。
教会の右隣りは、民芸品広場です。
山の斜面に、貧しい人々の掘っ立て小屋の住宅が並んでいます。

 

 

 

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*上段の写真は、コロニアル・ムード漂うムリリョ広場周辺です。
スペイン統治下時代の建物が、そのまま残っていました。
*下段の写真は、旧市街の高級住宅地で、ファッショナブルな家がありました。

 

 

 

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*上段の写真は、ムリリョ広場にあるボリビアの国会議事堂です。
*下段の写真は、首都ラ・パスのメイン・ストリートの
 Ave.16 de Julio ~ Ave.Villazonです。

私の日記:1999年12月5日、日曜日
外は快晴だった。今日は国政選挙の投票日のために、主要な道路には、
自動車は走っていなかった。アルコール飲料は、発売禁止だった。
公共施設は、どこも休業だった。往来は閑散としていた。

 

 

 

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**上下の写真は、ラ・パスのフォルクローレ・ミュージクの本場、
レストラン、ペーニャのライブハウス「ロス・クドス」のショウと舞台です。
(1999年12月4日、土曜日に撮影)

ラ・パスは、世界的に有名なフォルクローレの本場の町です。
ホテルの従業員から、ラ・パスの夜の一人歩きは危険だと言われたが、
折角、フォルクローレの本場に来たからには、ペーニャへ行って、
ライブショウを見たかった。

ペーニャに入場したが、観客は7名だけだった。少ない観客なので、
フォルクローレの音楽も踊りも、なんとなく盛り上がりに欠けた舞台だった。
翌日は、国会議員選挙の投票日のために、11時に閉店の処置がとられた。

尚、ペーニャとは、食事を食べながらライブ・ショウを見るところです。

 

 

 

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*写真は、ペルー国のプーノから、陸路で、ボリビア国の首都・ラパスへ
行く途中で、国境の町、コパカバーナを過ぎて、ティキーナ湖峡を渡ったところに
ある町です。

私の日記:1999年12月4日、土曜日
プーノの町のホテルで、朝、起きたときに、軽い高山病に罹っているのか、
頭がすっきりしなかった。午前8時に、ボリビア国へ行きのバスに乗った。
ペルー国とボリビア国の国境の町、ユングーノに着いた。出入国の手続きは
簡単だった。ボリビア国へ入ってから、道路は悪路だった。
ボリビアの首都ラ・パスには、午後4時頃に到着した。

ボリビアの首都ラ・パスは、標高3650m、世界最高所にある首都として有名です。
人口は約110万人ですが、半数が先住民インディヘナが占めています。
ある旅行者が、ラ・パスについて次のように述べています。

ラ・パスの難点は、偽警官が多いこと。いたるところに出没するが、特に多いのが
バスターミナル周辺とペルー国境からのバスが着くセメンテリオ(墓地)周辺。
手口は3種類。まず、観光客役が道を訪ねてきて標的の足を止め、そこに警察官と
名乗る男がやってきて、麻薬捜査などと称して荷物検査をするというもの。

2つ目はこの偽観光客抜きで私服警官が一人で職務質問するというもの。
3つ目はタクシーに警官が乗りこんでくるというもの。現金を持っていれば、
もちろん抜きとる魂胆だ。そもそもボリビアの警察官は制服を着ているし、
観光客に英語で話しかけてくるようなことはない。ラ・パスに17日いて4回も
偽警官に遭った。ペルーのリマやクスコで頻発しているタクシー強盗も
ぼちぼちラ・パスで起きているようだ。

 

ペルー国のチチカカ湖のウロス島へ上陸する

25(金) 午前 7:49

 




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**上・下の写真は、チチカカ湖のウロス島で、
先住民の生活などを見物する観光客たちです。

 

 

 






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**上・下の写真は、チチカカ湖のウロス島で生活する先住民とその住宅です。
浮き島では、観光客相手に、先住民が民芸品などを売っていました。

南米のボリビア国とペルー国の国境線沿いにそびえる
アンデス山脈の連なりであるラパス山脈の頂上付近に
チチカカ湖という世界的に有名な湖がありました。

このチチカカ湖は、長さ222km、幅112km、面積8200平方kmという。
チチカカ湖は、標高3810mという富士山より高い山の頂上付近にあります。

湖も深さは、ところによっては深度300mもあるという。
300mといえば現代の潜水艦でも簡単に潜れる深さではないという。



 

 

 






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*上段の写真は、ウロス島のトトロの草の上で、観光中に休んでいる小生です。
トトロで造った小船やトトロの屋根・壁が見えます。
*下段の写真は、ウロス島では、刈ったばかりの青いトトロを乾燥させています。

チチカカ湖(ティティカカ湖、Lago Titicaca)は、
ペルー南部とボリビア西部にまたがる淡水湖です。
標高は3810mほどです。
湖面の60%がペルー領で、40%がボリビア領となっています。「
(動力エンジンを持つ)汽船などが航行可能な湖として世界最高所」
と言われています。
数少ない古代湖の一つとしても知られています。

湖中には、チチカカ島やルーナ島、タキーレ島、アマンタニ島、
太陽の島、月の島、スリキ島など41の大小の島々があります。
チチカカ湖の島々やその周辺には、ケチュア族やアイマラ族、ウル族といった、
先住民系の民族が居住しており、沿岸の都市部での就労の他、
島では農耕や漁業、観光などに携わって生計をたてて暮らしています。



 

 

 






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*上段の写真は、ティティカカ湖のウロス島の住民と住宅です。
*下段の写真は、トトロで造った住宅屋根と、島に生えているトトロです。

アンデス山中にあるティティカカ湖の湖畔に、プーノという町があります。
この町は、「ティティカカ湖」への観光拠点として、
またボリビアへの通過点として、多くの旅行者が訪れています。
私も、ボリビアへ行く途中に、プーノへ訪れました。
プーノの町では、民族衣装のインディヘナが多く見受けられます。
南米らしいのどかな町でもありますが、美しい町ではありませんでした。
プーノは、標高 3,850m。富士山頂よりも高いところです。
ティティカカ湖も、汽船の航行する湖としては
世界最高所にある湖となっています。



 

 

 






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*上段の写真は、ティティカカ湖に生えているトトラという植物です。
*下段の写真は、ティティカカ湖の周遊をトトラで造った小船で
行われている光景です。

私の日記:1999年12月3日、金曜日
プーノの町は、汚い街だった。喧騒の街だった。
ティティカカ湖へ見物に出かけた。
ティティカカ湖は、アンデス山脈のほぼ中央にあり、
海抜3890mに位置していた。
この湖に浮かぶウロス島へ行った。
ウロス島は、トトラと呼ばれる植物を積み重ねた浮島だった。
ウロス島では、トトラで造った小船に乗って、周辺を見物した。
ウロス島の住民達が民芸品を売っていた。

午後、プーノの市街を散策した。
市内の最高級レストラン「ドン・ピエロ」で、夕食をとった。
ウエーター推薦の高い料理を食べたが、とても不味かった。
半分以上を食べ残した。

ペルー国のクスコから峠を越えて、チチカカ湖の町へ

  

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*写真は、プーノの町から クスコの町へ向けて走っている鉄道列車です。

バスの中から、ガラス窓越に撮影しました。
4000m級の高所付近です。

なお、私が向かうのは、プーノの町ですから
鉄道列車は、反対方向に、向かっています。

 

 

 

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***上中下の写真は、クスコからプーノへ行く途中、

4335mの高所で休憩中に見た周辺の風景です。
アンデスの山々を仰ぎ見ました。

近くを高山列車のレールが敷設してありました。
世界で最も高い鉄道路線だと言っていました。

 

 

 

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*上段の写真は、クスコからプーノへ行く途中で立寄った
スペイン統治時代の18世紀の遺物です。

なお、プーノの町は、ティティカカ湖が在る町です。

*中・下段の写真は、クスコからプーノへの道中で、
乗客とバスの運転手と車掌が昼食を食べる風景です。

写真の左に見える二人は、観光客相手に絨毯を編んでいます。
移動客のために、観光バス会社が演出したもの。

 

 

 

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**上・下の写真は、クスコの町から、プーノの町へ行く途中で
立寄った18世紀のスペイン統治時代のキリスト教会です。

私の日記:1999年12月2日(木曜日)
午前8時ころ、クスコの町から、ティティカカ湖畔のプーノ市へ向かった。
移動バスは、あえてトイレット完備のデラックスのバスを選んだ。
乗客は、フランス人夫妻と私の3人だけだった。
バスの乗車賃には、走行ルート上の観光地ガイドと昼食代を含んでいた。
クスコからプーノへの道と平行に、高山列車が走っていた。
途中、標高4335mの高所に留まった。
そこは、世界一高い鉄道路線の峠だと言っていた。
プーノの市街に午後5時頃に到着した。
宿は、インターナショナル・ホテルに決めた。
一泊料金は14ドル=約1680円だった。

 

 

 

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*写真は、クスコ郊外の農村風景です。

クスコ郊外の農村を観光バスで回り、
民芸店などに立寄りました。

子供の傍らの動物は リャマ という。
リャマとアルパカは、アンデスを代表する動物です。
古代から家畜としてインカ人が飼っていた動物です。
リャマは、アルパカよりも一回り大きいです。

ペルー国のクスコとマチュピチュを観光旅行する

  


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*写真は、クスコ近郊のサクサイワマンの要塞跡です。

此処は、クスコの東を守る堅固な要塞跡でした。
スペイン人に反逆を企てたマンコ・インカは、サクサイワマンの
要塞に2万人の兵士とともに陣どった。それは、1536年5月でした。

しかし、夜は戦わないインカ兵は、そのスキを突かれ、作戦は失敗に
終わり、20mあった城壁もその上から聳えていた円塔も大部分壊された。

遺蹟は、巨石を3層に積み上げて造られていた。石組みの技術は、
インカのそれらしくぴったりとかみ合い、特に内側は高さ5m、360トン
もある巨石が使われていたところもあった

 

 

 






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*写真は、クスコの住宅街です。
印象として、クスコの町には、石組みの壁を持つ家は、
むしろ少なくて、写真のような土壁を持つ家が多かった。

私の日記:1999年12月1日(水曜日)
朝食時に、ペンション花田に宿泊している日本人バックパッカーの若者達と
語り合った。若者達は、世界の後進国を放浪していた。
インド、イラン、メキシコなどを放浪した冒険物語を聞いた。

午後は、旅行会社の市内観光ツアーに参加した。
市内のアルマス広場、カテドラル、サン・ブラス教会、サント・ドミンゴ教会等を
見学した。そして、近郊の旧蹟であるサクサイワマン、ケンコー、プカプカラ、
タンボマチャイなどを見学した。

この日、昼食と夕食は、クスコ市内のレストラン「金太郎」で食べた。
日本人女性がつくった心の籠もった和食料理だった。



 

 

 






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*上段の写真は、マチュピチュ遺蹟について説明する
ガイド嬢(中央のメガネをかけた青い上着の女性)と、
日本人観光団体の一団です。

*下段の写真は、偶然に出会った大学時代の友人(左)と
一緒に、記念写真を撮る。

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1999年11月30日、火曜日

マチュピチュの見物が終わった後が、恐怖の連続だった。

友人達の日本の団体観光客は、午後2時ごろに山を降りた。
彼ら大勢の日本人団体観光客は、マチュピチュ駅を午後3時発の列車で、
列車は、満員の乗客を乗せて、去って行った。

次に、午後4時発の列車も、満席の乗客を乗せてマチュピチュ駅を出て行った。

広くて薄暗い駅の構内には、私一人だった。誰一人、構内には旅客はいなかった。
二人いた筈の駅員も、どこかへ行ってしまった。辺りには、人間の姿はなかった。

午後5時が過ぎた。谷間にあるマチュピチュ駅に、暗い夜の帳が下りた。
電灯のつかない暗い駅舎では、私は不安と恐怖を感じた。
午後6時になっても、広く大きな駅舎には、私ひとりだった。

6時半発の乗車予約券を持っているのは私一人だった。
強盗が出没するという噂を耳にしていたので、私は恐怖に震えた。
6時30分発の列車は、遅れて6時55分に、駅のホームに来た。

駅員が、どこからかやって来て、改札口に現れた。
客車は、1両のみだった。
客車に乗ったものの、電灯が点いていない列車内には、
私以外に、誰ひとり乗客はいなかった。
発車間際に、5人の乗客が現れた。

列車の走行中も、客車内は暗闇だった。
電灯の点かない真っ暗闇の中で、約4時間を不安と恐怖に震えて過ごした。
列車は、午後11時ごろに、終着駅のクスコのサン・ペドロ駅に着いた。

終着駅サン・ペドロ駅から、タクシーに乗ったものの、
タクシー運転手は、私が目指す宿が見付からないと言って、
私を暗闇の道路に降ろして、去って行きました。

首絞め強盗が現れる噂の深夜の小道をトボトボ歩いて、
昨日の昼間歩いた記憶を頼りに、日本人経営の安宿に帰った。
幸いにも、今日の一日、無事だった。



 

 

 






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*上段の写真は、マチュピチュです。
*下段の写真は、日本人団体観光客です。

~~~~~~~出典: フリー百科事典『ウィキペディア~~~~~~

マチュ・ピチュ(Machu Picchu)は、現地語では「老いた峰」の意味で、
よく保存されたインカの遺跡である。
ペルーのウルバンバ谷 (Urubamba valley) に沿う高い山の尾根
(標高約6,750ft、2,057m)に位置し、山裾からはその存在を確認できない。

しばしば《インカの失われた都市》あるいは《空中の楼閣》と呼ばれる。

この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。
遺跡の面積は約13Km2で、石の建物の総数は約200戸が数えられる。
マチュ・ピチュに関する多くの謎が未だに解明されていない。

熱帯山岳樹林帯の中央にあり、植物は多様性に富んでいる。
行政上クスコと同じ地域に属している。
現在ペルー国内では10ヶ所あるユネスコの世界遺産のうちでは
最初にクスコと同時(1983年)に指定された。



 

 

 






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*上段の写真はマチュピチュです。
*下段の写真は、昨日、古都クスコで、
偶然に遭遇した大学時代の友人森分君(右)に会いました。

~~~~~~~NHKのマチュピチュの説明文~~~~~~~
南米・アンデス山脈を望む山の頂に忽然(こつぜん)と広がるマチュピチュ。
インカ帝国が築き上げたこの都市は標高2400メートルの断崖絶壁の上にあり、
麓からは全く見ることができないきわめて特殊な立地にあるため「驚異の空中都市」
といわれています。
16世紀にインカ帝国を征服したスペイン人さえも気付かず、
20世紀に入るまでその存在は世界に知られていませんでした。
1911年、アメリカ人歴史家・ハイラムビンガムによって世界に紹介された
マチュピチュは20世紀考古学界の最大の発見と賞されたものの、
これがいったいなんのための都市だったのか長年謎とされてきました。

インカ帝国誕生の地、インカ帝国最後の都、処女の館と諸説が飛び交っていたが
決め手を欠いていました。
インカは文字を持たなかったため、手がかりになる文献資料がないということも
影響しています。しかし、今回の取材では新たな仮説にたどり着きました。
ビンガムが持ち帰った400点以上の出土品と、174体の人骨、
スペイン人による古文書から、マチュピチュは、
15世紀の第9代インカ皇帝の築き上げた王直轄の都市であることがわかったのです。
さらに住居跡の調査から、貴族や技術者など身分の異なる500人以上の人々が
ここで暮らし、段々畑で農作業をしたり、金属加工を行なったりなどの生活が
繰り広げられていたことがわかりました。
その姿は現在、マチュピチュ付近の農村で暮らすアンデスの人々と重なっています。
またおびただしい数の石造建築物をいかにして作り出したか、
その材料調達方法や、建築方法も次第に明らかになりました。
車輪を持たなかったインカの人々が、円柱状の石を転がすことで運搬していたことも
確認されました。

ペルー国のマチュピチュとクスコのインカ文明を見聞する

  

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*写真は、空中都市といわれるマチュピチュです。

1999年11月30日、火曜日

朝、6時30分に、宿からタクシーに乗ってサン・ペドロ駅に行った。

マチュピチュへ行く日本人団体観光客の一団がいた。

列車は、曲がりくねったレールの上をガタゴトとゆっくり走った。

終着駅から、バスに乗り換えて、マチュピチュへ登った。

尖った絶壁の山々がそびえるウルバンバ渓谷の山間に、

標高2,280mの頂上に、マチュピチュがあった。

マチュピチュとは老いた峰を意味します。

山裾からはその存在を確認できないことから“空中都市”とも呼ばれるこの遺跡は、

スペイン人から逃れるために、あるいは復讐の作戦を練るために、

インカの人々が作った秘密都市だったともいわれている。

 マチュピチュの総面積は5平方km、その約半分の斜面には段々畑が広がり、

西の市街区は神殿や宮殿、居住区などに分かれ、周囲は城壁で固められている。

16世紀半ば、インカの人々は高度な文明が栄えたマチュピチュを残し、さらに奥地へと消えてしまう。

その後400年以上にわたって人の目に触れることなく、1911年にアメリカ人歴史学者ハイラム・ビンガムが

初めて見た時には、草に覆われた廃虚となっていた。マチュピチュにまつわる多くの謎は、

未だに解明されていない。

 

 

 

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*写真は、近畿ツーリストの団体観光旅行で来ていたバスです。
バスの扉のところに立つ女性は、旅行会社のガイド嬢です。
私は、一人旅でしたので、久しぶりに、
この団体観光客の一員である友人の森分君を始めとし、
日本人観光客に出会いました。

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クスコの治安は、首締め強盗などが多発し、
治安はあまり良いとは言えないようでした。
日本人だけでも数人の被害者の話を聞いています。

観光客で賑わう中心部を歩いているとそんなことが信じられないが、
人通りの少ない脇道、夜の一人歩きは避けました。
夜の移動には、ケチらずタクシーを使いました。

 

 

 

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*上段の写真は、大学時代の友人・森分君と偶然に、
「12角の石」の前で、出会いました。

約35年間、海外97カ国のを旅してきましたが、
こんな辺鄙な町で、大学時代の友人に会うなんて、
一生涯のうちで、一度だけでした。

*下段の写真は、遭遇=僥倖記念の写真です。
左端が森分君、中央が小生、右端が森分君の実姉です。

 

 

 

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**上・下段の写真は、クスコの町の路地です。
このような精緻を極めた石壁がいたるところで見られました。

 

 

 

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**上・下段の写真は、インカ帝国の遺蹟「12角の石」がある路地です。
この道は、クスコの町の中心にあるアルマス広場から近い場所にありました。

ペルー国のクスコに、インカ帝国の遺跡を見る

 

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*写真は、12角の石です。


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「12角の石」は、カミソリの刃1枚すら通さない」という評判で、
多くの人に知られているインカ帝国時代の石材建築です。
これらの石は、クスコから10数キロから離れたところから
運ばれてきたものです。

石組みは、ピッタリと寸分の隙間もなく積み上げられていました。
クスコの町は、このような石壁で囲まれた路地が多くありました。

精緻に切り出された四角形の石は、微妙にズレながら、きれいなアミダ状の
模様を造り上げ、スペインのコロニアル建築を支えています。

この12角の石の意味は、様々な憶測があります。
一説には、ここにインカ・ロカの宮殿が建っていたことから、
王の一族(12人の家族)を象徴しているのだという。

 

 

 

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*上段の写真は、クスコの飛行場から、クスコの町を撮影したものです。

*下段の写真は、クスコの丘の中腹から、クスコの街並みを撮影しました。

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クスコは、アンデス山脈中の標高3600mにところにあります。
現在の人口はおよそ30万人と言われています。

クスコとは、「へそ」を意味し、インカ帝国の文化の中心でした。
現在でもペルーで有数の都市の一つです。

16世紀(1532年)に、スペインの征服者フランシスコ・ピサロによって
インカ帝国が終わりを告げた後、スペイン植民者がクスコを侵略しました。

1983年、世界遺産(文化遺産)に登録されました。

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私の日記:1999年11月29日、月曜日
午前7時半に、首都リマのホテルを出た。タクシーで国際空港へ向かった。
空港では、行列に並ぶことなく、空港職員が、行列に並ぶことなく、
チェックインの手続きから搭乗口まで案内をしてくれた。

アエロ・コンチネンタル航空機で、古都クスコヘ飛んだ。
クスコの町は、標高3360mの高地だったが、身体に異常を感じなかった。
空港から見渡すかぎり、クスコの町は、赤茶けた土色の町だった。
空港からは10人乗りぐらいの小型バスに乗ったが、20人以上が
ぎゅうぎゅうとすし詰めに積み込まれた。
クスコの丘の中腹にあるペンション花田に宿を決めた。1
泊料金は、朝食付き6ドル=約720円だった。
宿に着くや否や、「12角の石」を見るためにセントロへ行った。

 

 

 

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*写真は、リマのセントロにあるデサンパラドス駅周辺の風景です。

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ペルーの労働者の動き

――2008年2月 講演録

●ペルー統一労働組合連盟(CUT-PERU)

アルフォンソ ヘルナン ガンボア プリセニョ
組合員兼CUT-PERU青年・高齢者アドバイザー

 ペルー労働運動には4つのナショナルセンターがあり、CUT-PERU(ペルー労働組合連盟)はその主要な1つの組織である。労働運動の今日的な課題をあげると、

[1]人口の80%近くを占める自営の労働者全員をナショナルセンターに加盟させるべく努力している。彼らに社会保障を始めとするあらゆる権利を認めさせ、ルール化すること。

[2]労働一般法および公職雇用法の承認および施行を通じ、民間企業および行政の労働者の労働権を回復する。

[3]労働者の企業との直接契約の復活を要求し、雇用の安定化を図る。

[4]国際的な貿易条約の基本権利に関する労働条項や企業の社会的責任の矛盾の解決に関する項目に参画する。

[5]ペルーの労働運動と国際的な労働運動との連携を強化し、国際的な連帯行動や、直接的な労働運動展開のための協力行動を強化する。

  次に多国籍企業における労働問題については、

[1]多国籍企業における雇用関係は、派遣、請負などの雇用などが中心なため、きわめて不安定な雇用状況におかれている。

[2]労働組合の組織化は、極端な制限に特徴づけられ、組織化に取り組む労働者の解雇事件も多い。一方、産業別の集団交渉への体系的な抵抗があり、何年も交渉が続きながら解決されていない事例がある。

[3]鉱業関係など、労使紛争が多発している。これは、労働関係の不安定さの露呈と、90年代から尾を引いている実質的な賃金凍結状態に端を発している。

 

 

 

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*写真は、首都リマのセントロにあるサン・フランシスコ教会前で
ミサのために、多くのカトリック信者が集まっていました。

(1999年11月28日、日曜日に撮影)

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ペルーの宗教:
ローマ・カトリックが89%程であるが、
近年カトリックの数は減少しつつある。

その他の宗教としては福音派プロテスタントが 6.7%など。

スペイン人による征服以来ペルーに住む人々はキリスト教を受容していったが、
それでも先住民の伝統宗教と独自の融合、背反を重ねて現在に至っている。

 

 

 

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*写真は、ペルー国の国会議事堂とボリーバル広場です。

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次に記事は、中南米新聞の編集長・石河照大さんが、2000年11月に書かれた記事です。


正直、勤勉、テクノロジー」をスローガンにして、1990年に日系人として初の大統領に就任したペルーのアルベルト・フジモリ大統領は、東京滞在中の2000年11月20日未明(ペルー時間:19日)に辞任表明しましたが、与野党の勢力地図が逆転したペルー議会は11月21日、フジモリ大統領の辞表の受理を認めず、「道徳的欠如」を理由として事実上、罷免しました。フジモリ第3期政権発足(7月28日)から4か月足らずのことでした。

フジモリ政権崩壊へのカウントダウンは、フジモリ大統領の連続3選出馬の過程で始まったものですが、辞任への直接的な引き金となったのは、大統領の元腹心で”影の実力者”といわれたウダジミロ・モンテシノス国家情報局・顧問(=当時)が議会多数派工作のために野党議員を買収している様子を隠し撮りしたビデオが公開(9月14日)されたことでした。

3期10年4か月に及んだフジモリ政権は、軍部や国家情報局(SIN)を背景として力によるゲリラ掃討作戦で治安を回復し、また、年7000%を超えるハイパーインフレを終息させて経済安定を図り、そして、国営企業の民営化政策と市場開放政策による新自由経済政策(ネオリベラリズム政策)で高度経済成長を達成してマクロ経済面では大きな成果を上げたことは周知の通りです。

しかし他方、フジモリ政権の独裁的な強権体質への批判は高く、また、近年の世界的な経済危機の影響などもあって貧困の拡大や失業率の増加などで国民生活は非常に厳しいのも事実でした。また、フジモリ大統領の連続3選について、ペルー日系社会のフジモリ批判は日本では想像できないほど高いものでした。

ペルー国リマ市の大統領府を見る

 




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*写真は、大統領府の裏側の周辺です。
戦車が銃口を構えて、警備していました。

~~~~ペルーの治安(日本国外務省発表)~~~~~

ペルー:大規模抗議行動に関する注意喚起 (2008/07/18)

1.7月9日、ペルーにおいては、政府の経済政策等に反対して全国労働者総
連盟(CGTP)の呼び掛けによる全国ストが実施されました。ペルー政府は
軍を治安対策のために投入しましたが、マドレ・デ・ディオス州において、州
庁舎が焼き打ちに遭ったほか、ラ・リベルタッド州においては、出産のため妊
婦が救急車で病院に運ばれる途中にデモによる路上の置き石で立ち往生し、同
女性が出産後に病院で死亡するという痛ましい事故が発生しました。その他の
州では治安上の大きな問題はありませんでしたが、7月28日の独立記念日に
向けて、今後もデモやストの動きには注意が必要です。

2.マドレ・デ・ディオス州の状況を受けてペルー政府は、同州の公共機関に
対して破壊行為が行われ、迅速な復旧が必要なことを理由に、13日、同州に
非常事態宣言を発令しました。(期間は7月12日から9月9日の60日間。


3.つきましては、ペルーに渡航・滞在される方は、在ペルー日本国大使館
(在リマ総領事館)やテレビ・ラジオ等から最新の治安関連情報の入手に努める
とともに、可能な限り危険な地域の立ち入りは避け、やむなく立ち入りする際
は安全の確保に細心の注意を払うように努めてください。

4.また、ペルーにおいては、別途「危険情報」が発出されていますので、同
内容についても御留意ください。

(問い合わせ先)
○外務省海外安全相談センター
  住所:東京都千代田区霞が関2-2-1
  電話:(代表)03-3580-3311(内線)2902
 ○外務省 海外安全ホームページ: http://www.anzen.mofa.go.jp/
http://www.anzen.mofa.go.jp/i/(携帯
版)
 ○在ペルー日本国大使館(在リマ日本国総領事館)
  住所:Avenida San Felipe 356, Jesus Maria, Lima, Peru (Apartado N
o. 3708)
  電話:(51-1) 218-1130
  FAX :(51-1) 463-0302

 

 

 






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*写真は、リマのアルマス広場と大統領府の建物です。

1535年、ペルーの都をクスコからリマへ移すと決めた
フランシスコ・ピサロは、スペインのイベリア様式にのっとり、
アルマス広場を中心に町を築いていきました。
現在もアルマス広場は旧市街の中心地です。

広場を囲むように古い建物が残り、それを広場の片隅から、
ピサロの像が見詰めていました。
大統領府の周辺は、警備は厳重でした。

この大統領府の主は、フジモリさんでした。
(1999年11月28日、日曜日)



 

 

 






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*写真は、首都リマのセントロの、サン・マルティン広場です。

中心には、ペルー独立運動に大きな業績を残したサン・マルティン像が
立っていました。ここは市民の憩いの場といった雰囲気です。

かっては、観光案内所、旅行会社が広場周辺に集中し、旅行者にとって
欠かせない場所だったらしいが、現在はほとんどサン・イシドロ地区と
ミラフローレス地区に引っ越してしまい、広場周辺は閑散としていました。

(1999年11月28日、日曜日に撮影)

~~~~~~~
1999年11月に、ペルー国を訪問した時の大統領は、フジモリさんでした。
ペルーでは、フジモリ大統領をはじめ、ペルー政財界に多くの人材を輩出し、
その地位を不動のものとしているペルー日系社会ですが、
1999年は、移住100周年でした。

その移民の歴史は決して平坦なものでは無く、初期の貧困の歴史、
そして戦争(第二次世界大戦)に左右された苦難の歴史がありました。

100年前、まだ日本は、明治時代、ハワイ、米国等の移住の後、
南米移住の先駆けとして、ブラジルよりも早い時期にペルー移住が始まりました。
当初の移住は、他の国でも同様ですが、永住を目的にしたものよりも
主に出稼ぎを目的としていて、故郷に錦を飾る事を夢見て
日本を後にするというものでした。
当初の移民は非常に苦労したようで、雨の少ない不毛土地で生活習慣が違う中での
先人の苦労は現代の我々には想像不可能だと思います。

戦前、苦労しながらも真面目な働き振りで財を成した日系人達は
第二次世界大戦で敵国民となり、財産を没収、米国の収容所に送られると
いうような悲惨な体験を経て来ています。

現在では、ペルー日系社会は成熟した社会となり、ペルー社会の各方面で活躍、
なにしろ、フジモリ大統領を生んだほどなのですから、たいしたものです。



 

 

 






*写真は、首都リマのセントロの、サン・マルティン広場です。

中心には、ペルー独立運動に大きな業績を残したサン・マルティン像が
立っていました。ここは市民の憩いの場といった雰囲気です。

かっては、観光案内所、旅行会社が広場周辺に集中し、旅行者にとって
欠かせない場所だったらしいが、現在はほとんどサン・イシドロ地区と
ミラフローレス地区に引っ越してしまい、広場周辺は閑散としていました。

(1999年11月28日、日曜日に撮影)

~~~~~~~
1999年11月に、ペルー国を訪問した時の大統領は、フジモリさんでした。
ペルーでは、フジモリ大統領をはじめ、ペルー政財界に多くの人材を輩出し、
その地位を不動のものとしているペルー日系社会ですが、
1999年は、移住100周年でした。

その移民の歴史は決して平坦なものでは無く、初期の貧困の歴史、
そして戦争(第二次世界大戦)に左右された苦難の歴史がありました。

100年前、まだ日本は、明治時代、ハワイ、米国等の移住の後、
南米移住の先駆けとして、ブラジルよりも早い時期にペルー移住が始まりました。
当初の移住は、他の国でも同様ですが、永住を目的にしたものよりも
主に出稼ぎを目的としていて、故郷に錦を飾る事を夢見て
日本を後にするというものでした。
当初の移民は非常に苦労したようで、雨の少ない不毛土地で生活習慣が違う中での
先人の苦労は現代の我々には想像不可能だと思います。

戦前、苦労しながらも真面目な働き振りで財を成した日系人達は
第二次世界大戦で敵国民となり、財産を没収、米国の収容所に送られると
いうような悲惨な体験を経て来ています。

現在では、ペルー日系社会は成熟した社会となり、ペルー社会の各方面で活躍、
なにしろ、フジモリ大統領を生んだほどなのですから、たいしたものです。



 

 

 






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*リマの新市街にある娯楽施設です。カジノ=バクチ場です。

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ペルー移民:
ペルーに最初の日本人が上陸したのは、1898年でした。
以来、3~5万人の日本人が、ペルーにやってきたものの、
多くは過労や病気で倒れて、二度と日本の土を踏むことは、
無かったという。

彼らが残した子供達は2世としてペルーに根付きました。
生活が次第に安定して来ると、勤勉で努力家の日本人は、
ペルー社会で頭角を現してきました。
1990年、日系2世、アルベルト・フジモリさんが、
ペルー大統領になりました。
~~~~~~
ペルーの日系人口は、8万人といわれてきましたが、
この調査は数十年前に行なわれたものであります。
しかも当時、ペルー国外に住む日系ペルー人は、
調査対象とはならなかったうえ、
日本人の血の割合が低い混血の人たちを
あまりカウントしなかったようです。
これらの事実と、その後の自然増を勘案すれば、
現在の日系人口は数十万に達している可能性があるという。
ペルー人口の3%を占めるという説もあるが、
いずれも実数調査がなされていないという。




ペルー国首都リマの新都市地区ミラフローレスを歩いて

 

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*写真は、ミラフローレスの海岸にある「恋人達の公園」です。

恋人達がキスして抱き合っている巨大なモニュメントに驚嘆しました。
この公園では、週末にはコンサートなどが開かれることもあり、
沢山の若者たちが踊りにやって来るという。


~~~~~~日本国外務省発表~~~~

ペルー:非常事態宣言の再延長 (2008/07/16)

1.ペルー政府は、2005年12月23日以降、テロ組織センデロ・ルミノソ
 (SL)が活動しているとされる地域を非常事態宣言地域に指定し、国軍等
 の治安部隊を派遣してSLの掃討作戦を展開しています。

2.この関連で、同国政府は、2008年7月12日、現在非常事態宣言が発令さ
 れている4郡7町(アヤクチョ州:ワンタ郡、ラ・マル郡。ワンカベリカ
 州:タヤカハ郡。クスコ州:ラ・コンベンシオン郡キンビリ町、ピチャリ
 町、ビルカバンバ町。フニン州:サティポ郡、コンセプシオン郡アンダマ
 ルカ町、コマス町。ワンカヨ郡サント・ドミンゴ・デ・アコバンバ町及び
 パリアワンカ町)の非常事態宣言を再延長(期間:7月18日から9月15日ま
 での60日間)する旨発表しました。

3.なお、上記2.の地域以外にも、SLが活動しているとされる3郡2町(ワ
 ヌコ州:マラニョン郡チェロン町、レオンシオ・プラド郡、ワマリエス郡
 モンソン町。サン・マルティン州:トカチェ郡。ウカヤリ州:パドレ・ア
 バッド郡)に対して非常事態宣言が発令(期間:7月5日から9月2日までの
 60日間)されています。

4.つきましては、ペルーに渡航・滞在を予定される方は、在ペルー日本国
 大使館(在リマ総領事館)やテレビ・ラジオ等で最新の情報入手に努める
 など、安全確保には十分注意してください。特に、上記の非常事態宣言発
 令地域には、「渡航の延期をお勧めします。」の危険情報が発出されてい
 ますので、不測の事態に巻き込まれないためにも同地域への渡航は避けて
 ください。さらに、非常事態宣言地域に隣接する地域に渡航する際にも、
 安全確保に細心の注意を払ってください。
  なお、外務省海外安全ホームページには、「海外へ進出する日本人・企
 業のための爆弾テロ対策Q&A」や「海外における誘拐対策Q&A」等のパン
 フレットを掲載していますので、併せて御参照ください
 ( http://www.anzen.mofa.go.jp/pamph/pamph.html )。

5.ペルーには上記非常事態宣言発令地域以外にも「渡航の是非を検討して
 ください。」又は「十分注意してください。」の危険情報が発出されてい
 る地域がありますので、その内容についても十分御留意ください。

 

 

 

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**リマの新市街にあるセントラル公園の柵外では、
青空絵画市場が開かれていました。
なかなか素敵な絵画を即売していました。
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新市街のミラフローレス地区は、高級住宅街です。
旧市街のセントロ地区と違って喧騒はなく落ち着いた街でした。

公園の端にある広場から、放射状に大通りが5本延びていますが、
緑地帯には花が植えられてあって、とても美しい街路でした。

 

 

 

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**写真は、新市街のミラフローレス地区のセントラル公園です。
この公園の一角には、円形コロシアムや観光案内所がありました。
また、周辺には、カテドラル、市役所などがありました。
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ペルーの首都リマ市は、人口8百万人と現在では南米有数の都市に発展しました。
ペルーの政治・経済・文化の中心になっています。
地方の貧困とゲリラの活動の為に、内陸部を逃げ出してリマに出て来る人が
急増して、現在のように国内の3分の1が集中する状況になったそうです。

 

 

 

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*写真は、新市街のミラフローレス地区のセントラル公園の傍らに建つ
キリスト教会=カテドラルで見た結婚式の光景です。

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1999年11月27日、土曜日
昨夜、午後11時ころに、ペルー国リマのホルヘ・チャベス国際空港に着いた。
機内同乗の日系ペルー人のエコノミストから、ペルーの治安について、
詳しい助言があった。夜のリマは危険だという。サン・マルティン広場近辺の
ホテルに宿泊する予定をやめて、ミラフローレス地区のホテルに切り替えた。
空港から、タクシーに乗った。運転手に「ホテル・コンコルド」に行くよう頼んだ。
運転手は、そのホテルはミラフローレス地区の外れにある危険な場所だという。
別の良いホテルを紹介するという。しかし、私はタクシー運転手を信用しなかった。
ホテル・コンコルドに宿を決めた。一泊:15ドル=約1800円だった。

朝食後、新市街ミラフローレス地区のケネディ公園やセントラル公園を散策した。
セントラル公園にあるキリスト教会では、結婚式が挙行されていた。
そして、公園の柵外では、青空絵画市場を開いていた。
ホセ・ラルコ通りを南下して歩いていたら、海の見える公園に出くわした。
公園は「恋人達の公園」と名付けられていた。
公園の真ん中には、恋人たちがキスして抱き合っている巨大なモニュメントが
あった。公園には、2~3組のアベックが楽しそうに語らっていた。
公園近くの海辺の広場では、若者達がハングライダーを楽しんでいた。

昼食は、日秘文化会館で、和食の定食を食べた。それから、日本大使館へ行った。
日本大使館は新しく建設中だった。外観はトーチカ要塞のような形状だった。
旧大使館へも足を伸ばした。
1996年12月17日の夜から翌年・1997年4月22日午後3時23分まで
テロ組織・MRTAの武装グループが占拠した旧日本大使館だった。

 

 

 

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*写真:キト空港では火山灰が約1cm積もっていた。
航空機の機体上で、積もった火山灰を、
箒で掃き落とす空港の航空機整備員の人々です。
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1999年11月26日、金曜日
朝、ホテルのレセプションで、チェックアウトの手続きを
した時に、受付嬢が、外で大変なことが起こっていると言う。

玄関口から外に出たら、あたり一面に火山灰が降り続いていた。
道路には、約1cmぐらいの火山灰が積もっていた。
視界は、200~300m先は、降る灰で、見えなかった。
歩く人影はなかったが、タクシーだけは灰煙をたてて動いていた。

キト郊外のPichincha火山が噴火したのだ。
ホテルの外で、タクシーを拾って、
空港へ駆けつけたが、空港は閉鎖されていた。

航空機は飛ばなかった。空港の建物の中で、朝の10時ころから
午後3時頃まで、飛行機の運行再開を待ち続けたが、結局、
バスに乗って、約2時間かけてラタクンガ空港へ移動した。

さらに、小型機で、グアヤキル空港へ飛んだ。
夜の7時すぎに、Saeta航空機に乗って、ペルーのリマ空港へ飛んだ。

エクアドル国、キトのお祭り風景を撮影する

 

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エクアドルの首都キトの旧市街におけるお祭風景を撮影しました。
(1999年11月25日)

 

 

 

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エクアドルの首都キトの旧市街におけるお祭風景を撮影しました。
(1999年11月25日)

エクアドルの治安概況(日本国外務省発表)
(1)2007年1月15日に就任したコレア大統領は、エクアドル社会の大多数
  を占める貧困層の支持を得て、高い支持率を維持しており、現在のとこ
  ろ、同政権を取り巻く国内の情勢は安定しています。

(2)コロンビアと国境を接するスクンビオス県、カルチ県及びエスメラル
  ダス県の北部地域並びにオレジャアナ県では、コロンビア系反政府ゲリ
  ラ勢力の浸透による凶悪犯罪や、薬物・武器の密輸の増加が問題となっ
  ています。2005年8月には、スクンビオス及びオレジャアナ両県におい
  て住民等が民間石油会社に雇用枠の拡大等を訴え、火炎瓶を投擲した
  り、石油パイプラインを爆破したりしています。また、2008年3月1日、
  スクンビオ県北部の国境地帯において、コロンビア軍が、エクアドル領
  内にあるコロンビアの非合法武装勢力を越境攻撃しました。直後にみら
  れた二国間の極度の緊張状態は改善の方向に向かっているものの、国境
  地帯を中心に引き続き注意が必要です。

(3)首都キト市やグアヤキル市においては、強盗を始めとする凶悪犯罪が
  依然として高い水準で発生しています。その被害は日本人を含む外国人
  観光客にも及んでいます。

(4)2008年1月中旬からの長雨により、全国各地に甚大な被害が発生して
  います。

 

 

 

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エクアドルの首都キトの旧市街におけるお祭風景を撮影しました。
(1999年11月25日)

 

 

 

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*上段の写真は、独立広場のキトの市庁舎前で、
市民たちのお祭の様子・群衆を撮影しました。

*下段の写真は、パネシージョの丘を背景に、
道行くお祭の行列・群衆を撮影しました。
~~~~~~~~
1999年11月25日、木曜日
キト市街を北端から南端まで走るトロリーバスを、
観光しながら1往復した。そのあとに、
3度目の独立広場を中心に旧市街観光に出かけた。
郵便局で絵葉書を買った。日本の5人に、お便りを
書いて投函した。

独立広場の市庁舎前で、キトのお祭の行列を見物した。
民族衣装を着た行列の中の婦人が、私に
バナナ酒を振舞ってくれた。
お祭の行列が練り歩く約3時間、旧市街の道路では、
トローリーバスや自動車は
走ることことが出来なかったようだ。

 

 

 

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*写真は、エクアドルのキト市のカロリーナ公園です。
この公園の北側、写真の場所に《野口英世像》が存在する筈でした。

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野口英世像について
1918年、当時黄熱病の犠牲者が多く出ていた、エクアドルの
グアヤキルの町にやってきた野口英世は、ここで研究をつづけ、
ワクチンを作り、被害が広がるのを食い止めました。
これを讃えてエクアドル政府は、彼に「名誉大佐」の勲章を
授与しました。

最近、キトの町に、日本の野口英世財団により、
野口英世像が建てられたという。
そこで、1999年版のガイドブックに従い、探しまわりました。

ガイドブックには、
「新市街のカロリーナ公園の北側のAv.NacionesとCalle Japonの
交差点から公園に入って100mほど行った左手に、
《野口英世像》がある」と書いてありました。

観光ガイブックに従って、現地に行きましたが、そこは、写真の場所です。
周辺に住む人々に聞いて回りましたが、その「野口英世像」の存在を
確認出来ませんでした。

エクアドル国の赤道直下の記念館へ行く

 

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*上段の写真は、赤道記念碑周辺の建物です。
*下段の写真は、赤道記念碑の4階の展望台から眺めた景観です。

キト市の郊外にあるサン・アントニオ村に、赤道記念碑があります。
記念碑周辺は、小道や広場が造られ、小さな町を模したようになっていました。
レストラン、民芸品店、観光案内所、郵便局、電話局などがありました。
ここにあるレストランで昼食を食べました。

 

 

 

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**写真は、キト市郊外にある赤道記念碑です。

黄色の線の右側が北半球、左が南半球です。
1999年11月24日、水曜日に撮影しました。

人影から判断できるように、赤道直下とは言え、
太陽が真上ではなく、やや左側(南)から射しています。

この赤道記念碑の内部は、博物館になっています。
最上階の4階には、展望台があって、周囲の景観を望むことができます。

 

 

 

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**写真は、キト市郊外のサン・アントニオ村にある
赤道記念碑です。

エクアドルの国名は赤道の意です。
キトの北、約22キロの地に、赤道の通過を記念して碑が立てられています。
右が北半球、左が南半球です。
この記念碑の内部は、4階建ての博物館になっていました。
エクアドルの各地方ごとの民族の民芸品や生活様式などを
写真や模型、工芸品などを使って展示されていました。

 

 

 

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**上段・下段の写真は、エクアドル国の赤道記念碑です。

赤道記念碑は、キト市の北方約23kmのところにありました。
そこは、サン・アントニオ村でした。このサン・アントニオ村に、
北半球と南半球を分ける0度0’0”の線がありました。

この記念碑は、高さ30mもある立派なものでした。
てっぺんには、直径4.5mもある球が乗っていました。

エクアドルとは、スペイン語で赤道という意味です。

 

 

 

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**上・下段の写真は、エクアドル国の首都キトの独立広場の一角で、
靴磨きのお店を見ました。

靴磨きの顧客の身なりは立派でした。

南米エクアドル国の首都キトの町を放浪する

 

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*上段の写真は、エクアドルの首都キト、旧市街で見た
露天商の活躍舞台です。

*下段の写真は、中央の商人は、露店を持っていないので、
一人で、子供相手にシャボン玉の玩具を売っていました。

 

 

 

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*写真は、エクアドルの首都キトの路上で、旧市街の路地で、
赤ちゃんを抱きながら、マメ類の物売りをしている女性です。

マメは、生ですから、料理しなければ、そのままでは食べられません。
とても安い食品なので、買いたい気持ちが湧いたけど、躊躇してしまいました。

このように、路上に座り込んで、物売りする女性を数十人も見かけました。

 

 

 

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*写真は、エクアドル国の首都キトの独立広場に近い路地です。
路地の両側には、露店が仰山に並んでいました。

写真の中央部には、露店を持たない商人が、商品を両手に持って、
道行く人々に声をかけていました。
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キト (Quito) は、エクアドル共和国の首都です。
赤道直下に位置しているが、アンデス山脈の中腹(標高2850メートル)にあるため
比較的涼しい。人口は、1,399,378人(2001年)です。

エクアドル国、キトの町の歴史:

キトの発祥は紀元1000年以前までさかのぼることができる。当時、その一帯は遊牧民たちの遊牧する土地であったが、その後今のキトの位置に市が開かれた。

15世紀末にはインカ帝国の支配下に置かれ、11代インカ皇帝ワイナ・カパックの母親が当地の出身だったため、帝国の第二の首都として整備されることとなる。第一の首都であるクスコからキトまでは、インカ道が通された。 しかしその後、帝国ではクスコ派とキト派との対立が深まり、ワイナ・カパックの死後、帝国は2人の息子により分けられ、ワスカルがクスコを中心に帝国の大部分を、そして、アタワルパがキトを中心に北部を収めることとなる。

その後起こった内戦で勝利を収めたアタワルパは、キトからクスコへ向かう途中、侵略してきたスペイン人の捕虜となり、処刑される。そしてキトは、スペイン軍の侵略を防ぐために、アタワルパの武将であったルミニャウィによって破壊された。

結局、インカ人の反乱は制圧され、フランシスコ・ピサロは1534年、キトへの殖民を開始。街は「サン・フランシスコ・デ・キト」と名づけられた。 地元民は改宗させられ、教会の建設などに酷使された。そしてその後300年にわたり、キトはスペインの植民地として支配されることとなる。

1800年代初頭には人口1万人を数える都市に成長していたキトだが、そのころにはスペインからの独立の気運が高まってきていた。しかしその運動は、1810年にリマから派遣されたスペイン軍により鎮圧されることになる。 だが、その後も運動は続き、救援に来たアントニオ・ホセ・デ・スクレが1822年にスペイン軍にピチンチャの戦いで勝利したことで、スペインからの独立を勝ち取り、大コロンビアの一部となる。 だが、1830年には独立し、独立したエクアドルの首都となる。

 

 

 

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写真は、大統領官邸前で、警備の歩哨と並んで立つ筆者です。

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エクアドルという国:
日本よりもひとまわり小さいエクアドルには、山あり、海あり、ジャングルあり、さらにあのダーウイン博士の愛したガラパゴス諸島までもがある。国名が示す通り赤道(=Ecuador)直下に位置し、南北約1000kmにわたって走るアンデス山脈によって、その国土をコスタ(海岸地方)、シエラ(中央アンデス地方)、オリエンテ(東部熱帯低地)という3つの気候区に分けられ、この国を訪れる人は、バラエティ豊かな気候を体験することになる。

首都キトに代表されるシエラは、中央アンデス山脈を形成する4000~6000m級の万年雪を頂いた山々に囲まれ、涼風の吹きぬける盆地が点在する。かつてアンデスのフィレンツェとも形容されたこの地方は、年間を通して春のような気候だ。

エクアドルはボリビアに次いでインディヘナの割合が高い国であり、インディヘナおよび混血のメスティソが人口の約90%を占める。しかし、民族衣装の色彩も鮮やかで、ボリビアで見かける人々とは、異なった表情を見せている。赤道直下とはいえ、変化に富んだ地形を持つエクアドルの自然は、非常に多様性に富んでいる。絶滅の危機に瀕した動植物や、エクアドルにしか生息しない動植物も数多くいる。

 

 

 

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*写真は、首都キト市、旧市街の独立広場に立つ筆者です。

この広場には、1809年8月10日の独立を記念した碑が立っていました。
旧市街セントロの中でも、ここは心臓部にあたるところです。
この独立広場を中心にして、大統領官邸、市庁舎、カテドラルがありました。

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400年の歴史を刻む旧市街(世界遺産)
キトは、ピチンチャ山(4839m)を背景に、南北17kmにわたって、
延びる細長い街です。北からノルテ(北地区、新市街)、セントロ
(中央地区、旧市街)、スール(南地区)の大きく3地区に分けられます。
セントロが一番の見どころです。コロニアル時代の面影を残す建築物が並び、
その間を石畳の道が続いています。

南米のエクアドル国とコロンビア国を歩き回る

*写真は、首都キト市、旧市街の独立広場に立つ筆者です。

この広場には、1809年8月10日の独立を記念した碑が立っていました。
旧市街セントロの中でも、ここは心臓部にあたるところです。
この独立広場を中心にして、大統領官邸、市庁舎、カテドラルがありました。

~~~~
400年の歴史を刻む旧市街(世界遺産)
キトは、ピチンチャ山(4839m)を背景に、南北17kmにわたって、
延びる細長い街です。北からノルテ(北地区、新市街)、セントロ
(中央地区、旧市街)、スール(南地区)の大きく3地区に分けられます。
セントロが一番の見どころです。コロニアル時代の面影を残す建築物が並び、
その間を石畳の道が続いています。

 

 

 

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*写真は、エクアドル国の首都キトにある最大のカテドラルです。

1657年の建設です。キトの独立運動の中心であり、
暗殺されたスクレ将軍が隅にひっそりと埋葬されています。

このカテドラルのある旧市街は、ユネスコの世界遺産ですが、
カテドラルの玄関口には、可哀想な物乞いが5~6人いました。
物乞いにオカネを差し出すことはしませんでした。
聞くところによると、物乞いにオカネを寄贈する外国人は、
あとで、スリ、カッパライのターゲットにされるということでした。

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私の日記:1999年11月23日、火曜日
朝、6時に起きた。早めに、コロンビア国、ボゴタ郊外の
エル・ドラド国際空港へ行った。
ボゴタ市が、標高2600mの高所にあるからか、身体のだるさと
少しの頭痛を覚えた。空港では、出国に際して荷物検査が厳しかった。
日本人の私には簡単な検査だった。コロンビア国は麻薬の本拠地だけに、
厳重な麻薬取締りの現場の光景を見て納得した。

午前10時発のアビアンカ航空機に乗った。
エクアドル国の首都キトへ飛んだ。
マリスカル・スークレ国際空港に降りた。空港からバスに乗り、さらに、
トロリーバスに乗り換えて、コロン駅で下車し、ホテル「ドン・ジョウルジョ」
に宿を決めた。一泊が12万スークレ=約7ドル=約840円だった。
部屋は清潔で綺麗だった。コロン駅から少し遠いのが難点だった。
このホテルは、新市街の高級住宅街の一角にあります。

キトは、標高2850mだった。高山病に罹らない様に旧市街をゆっくりと
歩いた。旧市街・セントロは、400年前の植民地時代の建築物が、いまなお、
しっかりと生き続けていた。ユネスコが「世界遺産」として指定した都市キト
の旧市街を見物した。独立広場を囲んで、カテドラル、大統領官邸、市庁舎
などがあった。

 

 

 

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*写真は、19世紀博物館の内部です。
19世紀におけるコロンビアの文化がどんなものだったかを、
骨董品のコレクションで再現したユニークな博物館でした。

1999年11月22日、月曜日
大統領官邸の周辺は、物々しい警戒陣の網が張られていた。
コロンビア国は、麻薬マフィアのテロが、しばしば起きているので、
国軍による警護隊の警戒を当然のことと思った。
官邸周辺をパトロールして警戒にあたって兵隊達に、
「19世紀博物館は、どこにあるのか」と尋ねたところ、
その中の一人が、上司の許可を得て、私を自動小銃付きで、
護衛しながら、「19世紀博物館」まで、案内してくれた。
きっと、暇を持て余していたのだろう?

 

 

 

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**上段の写真は、
首都ボゴタのボリーバル広場で憩う老人達です。
私に「中国人か?」と尋ねてきたので「そうだ!」と応えました。

*下段の写真は、
首都ボゴタのボリーバル広場で、遊ぶ家族連れの市民達です。

 

 

 

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**上下段の写真は、首都ボゴタの新市街で、日曜日の休日に、
歩行者天国で、サイクリング競技を楽しむ市民達です。
(1999年11月21日、日曜日、撮影)

暗い感じの旧市街に対して、新市街は明るい雰囲気だった。

南米エクアドル国の首都キトの街頭で見た光景

 

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**上・下段の写真は、エクアドル国の首都キトの独立広場の一角で、
靴磨きのお店を見ました。

靴磨きの顧客の身なりは立派でした。

 

 

 

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*上段の写真は、エクアドルの首都キト、旧市街で見た
露天商の活躍舞台です。

*下段の写真は、中央の商人は、露店を持っていないので、
一人で、子供相手にシャボン玉の玩具を売っていました。

 

 

 

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*写真は、エクアドルの首都キトの路上で、旧市街の路地で、
赤ちゃんを抱きながら、マメ類の物売りをしている女性です。

マメは、生ですから、料理しなければ、そのままでは食べられません。
とても安い食品なので、買いたい気持ちが湧いたけど、躊躇してしまいました。

このように、路上に座り込んで、物売りする女性を数十人も見かけました。

 

 

 

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*写真は、エクアドル国の首都キトの独立広場に近い路地です。
路地の両側には、露店が仰山に並んでいました。

写真の中央部には、露店を持たない商人が、商品を両手に持って、
道行く人々に声をかけていました。
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キト (Quito) は、エクアドル共和国の首都です。
赤道直下に位置しているが、アンデス山脈の中腹(標高2850メートル)にあるため
比較的涼しい。人口は、1,399,378人(2001年)です。

エクアドル国、キトの町の歴史:

キトの発祥は紀元1000年以前までさかのぼることができる。当時、その一帯は遊牧民たちの遊牧する土地であったが、その後今のキトの位置に市が開かれた。

15世紀末にはインカ帝国の支配下に置かれ、11代インカ皇帝ワイナ・カパックの母親が当地の出身だったため、帝国の第二の首都として整備されることとなる。第一の首都であるクスコからキトまでは、インカ道が通された。 しかしその後、帝国ではクスコ派とキト派との対立が深まり、ワイナ・カパックの死後、帝国は2人の息子により分けられ、ワスカルがクスコを中心に帝国の大部分を、そして、アタワルパがキトを中心に北部を収めることとなる。

その後起こった内戦で勝利を収めたアタワルパは、キトからクスコへ向かう途中、侵略してきたスペイン人の捕虜となり、処刑される。そしてキトは、スペイン軍の侵略を防ぐために、アタワルパの武将であったルミニャウィによって破壊された。

結局、インカ人の反乱は制圧され、フランシスコ・ピサロは1534年、キトへの殖民を開始。街は「サン・フランシスコ・デ・キト」と名づけられた。 地元民は改宗させられ、教会の建設などに酷使された。そしてその後300年にわたり、キトはスペインの植民地として支配されることとなる。

1800年代初頭には人口1万人を数える都市に成長していたキトだが、そのころにはスペインからの独立の気運が高まってきていた。しかしその運動は、1810年にリマから派遣されたスペイン軍により鎮圧されることになる。 だが、その後も運動は続き、救援に来たアントニオ・ホセ・デ・スクレが1822年にスペイン軍にピチンチャの戦いで勝利したことで、スペインからの独立を勝ち取り、大コロンビアの一部となる。 だが、1830年には独立し、独立したエクアドルの首都となる。

 

 

 

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写真は、大統領官邸前で、警備の歩哨と並んで立つ筆者です。

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エクアドルという国:
日本よりもひとまわり小さいエクアドルには、山あり、海あり、ジャングルあり、さらにあのダーウイン博士の愛したガラパゴス諸島までもがある。国名が示す通り赤道(=Ecuador)直下に位置し、南北約1000kmにわたって走るアンデス山脈によって、その国土をコスタ(海岸地方)、シエラ(中央アンデス地方)、オリエンテ(東部熱帯低地)という3つの気候区に分けられ、この国を訪れる人は、バラエティ豊かな気候を体験することになる。

首都キトに代表されるシエラは、中央アンデス山脈を形成する4000~6000m級の万年雪を頂いた山々に囲まれ、涼風の吹きぬける盆地が点在する。かつてアンデスのフィレンツェとも形容されたこの地方は、年間を通して春のような気候だ。

エクアドルはボリビアに次いでインディヘナの割合が高い国であり、インディヘナおよび混血のメスティソが人口の約90%を占める。しかし、民族衣装の色彩も鮮やかで、ボリビアで見かける人々とは、異なった表情を見せている。赤道直下とはいえ、変化に富んだ地形を持つエクアドルの自然は、非常に多様性に富んでいる。絶滅の危機に瀕した動植物や、エクアドルにしか生息しない動植物も数多くいる。

コロンビア国の首都ボゴタへ行く

 

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*写真は、ボゴタの街路です。
ボリーバル広場の近くです。
役所(左側の建物)やキリスト教会(右側の奥建物)、
山の麓には、住宅街があります。

大統領官邸も近くにありましたが、
コロンビア国軍によって厳重に守護されていました。

コロンビア共和国には、
革命軍と称するテロ組織が存在して、
治安面では、大きな課題を持っています。
強盗は、頻繁に出現しています。

私は、人気の少ない場所へは、行きませんでした。

 

 

 

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*写真は、ボリーバル広場とキリスト教会(カテドラル)です。
ボリーバル広場の荘厳な雰囲気を持つカトリック教会(カテドラル)があります。

このカテドラルは、ボゴタの顔です。
カテドラルは、1811年に完成しましたが、もともと、此の地には、
スペイン人侵略が始まって直ぐに、ボゴタで最初の教会が建てられたという。

カテドラルの内部には、当時の優れた画家たちの宗教画をはじめ、
銀の装飾を施した祭壇など宗教美術が粋を凝らされたいました。

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ボゴタにおける強盗の発生(日本国外務省発表)

強盗等の発生件数は多く、日本人も時折強盗の被害に遭っています。
  主な強盗としては、
 (イ)路上で銃器等凶器を使用して行われる路上強盗
 (ロ)薬物等を使用して意識が無くなった隙に金品を強奪する薬物強盗
 (ハ)タクシーに乗車の際、運転手に銃等凶器で脅迫され金品を奪われる
   強盗
   等があります。最近の日本人被害で多いのが、現地で知り合ったコロ
  ンビア人から勧められた睡眠薬入りの飲料等を飲み、意識が無くなった
  隙に金品等を強奪される薬物強盗です。また、被害者のほとんどが単独
  で行動している際に狙われているため、外出する際は複数で行動するこ
  とをお勧めします。
   不幸にも強盗の被害に遭った場合は、犯人の多くは凶器を用いていま
  すので、無理に抵抗しないことが大切です。また、空港、飲食店、観光
  地におけるスリ、荷物の置き引き、荷物への薬物の混入等についても事
  例がありますので、所持品の管理にも注意が必要です。

 

 

 

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*写真は、首都ボゴタのボリーバル広場と、
コロンビア共和国の国会議事堂です。

議事堂はボリーバル広場の北東に面しています。
1848年に建てられました。

広場の中央には、南米解放の父、シモン・ボリーバル像があります。
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コロンビア共和国の内政(日本国外務省発表)

コロンビアは憲政100年を誇る民主国家であり、
二大政党(保守党・自由党)による民主体制が継続してきた。

他方、コロンビアには、コロンビア革命軍(FARC、約1.8万人)
及び国民解放軍(ELN、約5,000人)の非合法武装勢力が存在し、
40年に亘り政府、治安当局、外国人に対して、
政治目的のテロや資金調達のための誘拐等を行ってきており、
その活動資金は麻薬取引にて調達しているなど、
治安に対する脅威が依然として存在している。

コロンビアにおいては、かかる非合法武装勢力の解体と
彼らの平和的な社会復帰が歴代政権の主要懸案事項である。

 ウリベ大統領は、2002年5月の大統領選挙において、
テロに対して強硬的な政策を掲げ、第一回投票で過半数を獲得し当選した。
ウリベ大統領は、国軍強化及び軍事・治安政策の強化による強硬策を採用し
左翼ゲリラ勢力等への圧力を強め、その勢力の弱体化を図りつつも、
ゲリラ側との交渉の可能性を模索してきている。
 
ウリベ大統領は治安対策に力を入れており、誘拐事件の減少、
幹線道路の安全確保等一定の成果を挙げてきている。
これら治安面の成果もあり、就任以来、大統領に対する支持率は
7~8割にも及んでおり、歴代大統領の中でも高支持率を誇っている。
国民からの高い支持を背景に、ウリベ大統領は2006年5月の大統領選挙で
再選を果たした。
 

 

 

 

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*写真は、首都ボゴタにある国立博物館です。
石造りの要塞のような堅牢な建物ですが、
かって刑務所として使用されていたものです。

1948年から博物館として生まれ変わりました。
コロンビアの文化を知るために入館しました。
原住民の生活文化は、もちろんのこと、
コロンビア独立の歴史や当時の絵画、武器、書簡など、
そして、「南米解放の父」ボリーバルの肖像画もありました。

更に、コロンビアの近代から現代までの、世界的に知られている
画家の作品が沢山に展示されていました。
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私の日記:1999年11月21日、日曜日
宿泊ホテルのオーナーが、初めてのコロンビア国訪問の私を気遣って、
朝食を近くのレストランまで連れて行ってくれた。
治安の悪いボゴタでの観光について、親切に教えてくれた。
朝食後、まず、最初に、ホテル近くにある国立博物館へ行った。

治安情報の概況(日本国外務省発表)
  コロンビアでは、FARC(コロンビア革命軍)やELN(国民解放軍)とい
 った左翼ゲリラが存在しています。こうした左翼ゲリラは以前より少なく
 なってはいますが、特に地方において治安当局と対峙しており、各地でテ
 ロ活動や誘拐等を行っています。
  ウリベ大統領は、治安要員の増強、治安対策の強化を進めており、2007
 年3月のブッシュ米国大統領訪問の際及び10月の統一地方選挙の際も大き
 な混乱はなかったように引き続き治安状況の改善傾向がみられます。
  国内の和平については、同年8月にパラミリタリー(極右非合法武装集
 団)の武装放棄プロセスが終了しました。これに加え、左翼ゲリラELNに
 ついては、コロンビア政府とELN指導部との非公式直接対話が続いていま
 す。しかし、国内最大の左翼ゲリラFARCについては、弱体化しているとは
 いえ、依然地方都市や山間部を中心に勢力を保持し、治安当局やエネルギ
 ー施設に対するテロ攻撃や誘拐等を継続しています。また、本年6月に発
 生したバジェ県議会議員(5年以上にわたり身柄を拘束されていた)11人の
 殺害事件を契機に、政府はFARCに対する態度を硬化させており今後FARCと
 政府の動向には引き続き十分注意を払う必要があります。
  また、強盗等犯罪発生件数は少なくなく、コロンビアの治安情勢を十分
 理解していない邦人旅行者等が、強盗、スリ、置き引きなどの被害に遭っ
 ています。

 

 

 

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*写真は、ベネズエラの国立美術館の中庭に立つ現代彫刻・女体像です。

ベネズエラ国の美術館で、鮮烈な人物像を見学する

 

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*写真は、ベネズエラ国立美術館の玄関口を飾った女体像です。

私は、欧米や日本でも、女性の性器を肉体の一部に、写実的に表現した彫刻を
沢山に見てきましたが、このような姿態の彫刻を見たのは初めてでした。

フランスのロダン美術館でも、性器を彫刻にした作品がありましたが、
これほどに、前面に露出した作品ではありませんでした。

 

 

 

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*写真は、カラカスの国立美術館の前庭に立つ
ロダン作のバルザック像です。

このマント姿のバルザックですが、野望と情熱に溢れ、エネルギッシュに表現された、ロダンの傑作だと思います。
日本でも、上野の国立西洋美術館や箱根の彫刻の森美術館で見た記憶があります。
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ロダンは、1890年、ゾラを会長としたフランス文芸家協会から、
バルザック像の依頼を引受けました。
当時、バルザックにひどく心酔していたロダンは、驚嘆すべき精力を傾けました。
バルザック像を、制作過程で、最初は裸体像にして、巨大な性器をつけました。
そして、最終的に、バルザックの肉体を包んだのが、寝巻だったのです。

その寝巻姿のバルザック像がサロンに出品されると世論は沸騰して、
ロダン後援会の人々でさえ呆然としてしまったのだそうです。

人々は、ロダンの精神状態を疑い、モンマルトルの寄席では喜劇にまでこれを使用し、
ロダンを揶揄(やゆ)したのです。
文芸家協会は作品の受取を拒否し、サロンはその撤回をロダンに迫ったのですが、
ロダンは、沈黙して自分の意見を発表することは、なかったのです。

 

 

 

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*写真は、カラカスの国立美術館の屋上から眺めた高級住宅地です。

国立美術館は、カラカスの東部エリアにある中央公園の東、
ロスカオボス公園の一角にあります。

中央公園は《公園》と名付けられていますが、中心部には、
七つの巨大なアパート(1万人が住んでいるという)や、オフィスビルや、
ヒルトン・ホテル(レジデンシャル)、現代美術館などがあります。

 

 

 

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*写真は、カラカスの中心部にあるセントロ地区から
ボリーバル大通りを、東部エリアを撮影しました。
東部エリアには、近代的な街並みの商店街や高級住宅街、
大企業のオフィスビルが作られ、新たな街の心臓部になろうとしていました。
(1999年11月20日)

 

 

 

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*写真は、ベネズエラの首都カラカスの
セントロ地区、Ave.Universidadにある市庁舎です。

地下鉄 カピトリオCapitolio駅 を出ると、目の前にありました。
市庁舎は、ボリーバル広場近く国会議事堂と隣り合わせでした。
カラカスの町は、ボリーバル広場を中心とするセントロ地区から、
東部、南部へと広がりを見せています。

~~~~~~~~~~~~
カラカス地下鉄は、1983年から営業しています。
地下鉄を運営するカラカス地下鉄公社は、メトロバスというバスも運営しています。

現在の地下鉄の建設計画は、1968年に立てられました。
1983年1月2日に一号線が運行をはじめました。
工事にはベネズエラとアメリカ合衆国の多数の企業が携わりました。
車両はフランスで作られました。

ベネズエラ国の首都カラカスで、南米解放の父ボリーバル記念館へ行く

 

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*上下段の写真は、危険地帯、ベネズエラの首都カラカスの盛り場です。
多くの露店商が、道路の両脇や真ん中に、店を連ねていました。
写真撮影を目立たない場所から、撮影しました。
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カラカス(Caracas)は、ベネズエラ・ボリバル共和国の首都である。
ベネズエラの北部、カリブ海から山を1つ越えた盆地にある。
2001年現在の人口は、276万2759人。

通常は首都地区リベルタドル市と、ミランダ州のチャカオ市、スクレ市、バルタ市、
エルアティジョ市をあわせて言うが、
リベルタドル市のみを指してカラカス市と称する場合がある

カラカスの都市圏にあるリベルタドル市に、
ベネズエラ中央大学のキャンパスを中心にした大学都市という地区がある。
現代建築と彫刻が調和しているとされ、2000年に世界遺産に登録された。

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カラカスの治安(日本外務省発表):
カラカス首都区のリベルタドール(カラカス)市及びスクレ市
 
 =「渡航の是非を検討して下さい。」=

 (イ)カラカス首都区のセントロ地区では、近年、露天商が急激に増加して
   います。一見華やかに見えるこれら露天商街では、強盗、スリ等の被害
   が多発しており危険です。また、露天商とこれを撤去しようとする警察
   或いは国家警備軍の間で時折、衝突が発生しています。露天商らの投石
   やゴミの山に火を付ける行為に対し、治安当局側は催涙ガスやプラス
   チック弾を発射して対抗するため、これが発生した場合は、一時的に非
   常に危険な状況となります。

 (ロ)また、同地区には美術館、博物館等の観光名所が多々ありますが、現
   地をよく知る者の案内等なく、一見して観光客のような格好で観光する
   ことは犯罪者の格好のターゲットとなり危険です。

 (ハ)一般治安については、治安当局の統計によれば、2004年の殺人事件に
   よる死者は全国で9,719人(人口10万人あたりの発生件数は日本の33.3
   倍)、カラカス首都区で1,871人(同東京の75.3倍)でしたが、そのう
   ちリベルタドール市では1,164人、スクレ市では481人と非常に高い発生
   率を示しています。強盗事件についても全国で60,889件(同日本の40.2
   倍)、カラカス首都区で11,209件(同東京の76.3倍)で、そのうちリベ
   ルタドール市では3,214件、スクレ市では696件と、殺人事件同様、非常
   に高い発生率を示しています。

 (ニ)これら凶悪犯罪は、時間、場所、対象を問わず、その約90%が拳銃等
   の銃器を使用した犯行で、在留邦人や日本人観光客も拳銃を使用した強
   盗、自動車強盗等の被害に遭っています。

 (ホ)同地区では、ひったくり、置き引き、スリ等の犯罪も依然として高水
   準で推移しています。

 (ヘ)これら犯罪の約60%は公道上で発生しており、犯罪多発時間帯は従来
   平日の午後8時から午前0時までの間でしたが、最近では人が街頭に多く
   出る時間帯(通勤時間帯、昼食時間帯等)に多く発生するようになって
   います。

 (ト)つきましては、カラカス首都区のリベルタドール(カラカス)市及び
   スクレ市への渡航を検討されている方は、上記情勢を踏まえ、渡航の是
   非を含めた検討を真剣に行い、渡航される場合は、各種犯罪に巻き込ま
   れることのないよう十分な安全対策を講じることをおすすめします。

 

 

 

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**上下段の写真は、英雄ボリーバルの生家の内部です。立派な内部でした。
彼が生まれ育ったままの、コロニアル時代の姿のまま、保存されていました。

南米解放の父・ボリーバルが裕福な名門の生まれであることが、理解できました。
いまは、ボリーバル博物館として公開されていました。
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ベネズエラ独立運動
1806年にベネズエラ出身の元スペイン軍軍人だったフランシスコ・デ・ミランダ将軍が
ベネズエラ解放のための戦争を始めると、ボリーバルはこれに興味を抱き、
1807年にベネズエラに帰国した。

その後1808年にナポレオンがスペインに侵入して兄のジョゼフ・ボナパルトを
スペイン王ホセ1世として擁立した際、ボリバルは反王政派に加わった。
1810年4月19日、カラカスは植民地の自治を実行するための議会を設置。
ボリーバルはイギリスに外交のため派遣された。
イギリスでの活動目的は、スペイン植民地独立運動の説明と万が一の場合の武器などの
支援を受けられるように働きかけることであった。
資産以外に何の後ろ盾もなかったボリーバルのイングランド説得は
不成功に終わったが、ボリーバルはイギリスの政治制度から多くを学び、
後年世界で最も優れた政治体制は君主制を除いてイギリスのものだと語っている。

ボリーバルは1811年にベネズエラに帰国、3月に開かれた制憲会議で演説を行った。
1811年7月に、制憲会議がベネズエラの独立を宣言。
ボリーバルはベネズエラ国軍に入隊した。
ボリーバルはプエルト・カベロの要塞の守備をしていたが、
将校の裏切りにより要塞がスペイン軍の手に渡ってしまった。
さらに同年起こったカラカス大地震による被害は大きく、カラカスは再びスペイン軍に
占領されてしまう。これを重く見た政権のリーダーであったミランダ将軍はスペインと
休戦(事実上の降伏)したが、ボリーバルは徹底抗戦を誓って裏切り者のミランダを
スペイン軍に引渡し、ヌエバ・グラナダ連合州が支配していた現コロンビアの
カリブ海沿岸の都市カルタヘナに向った。(以下省略)

 

 

 

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*写真は、南米解放の父、ボリーバルの銅像です。
ボリーバル博物館のメイン・ルームに飾ってありました。

ベネズエラのチャベス大統領は、
国名を「ベネズエラ・ボリーバル共和国」と改名しました。

=======
ボリーバルの幼少期
ボリーバルは、現在のベネズエラ、カラカスのクリオーリョの名家に生まれた。
幼くして両親を亡くしたが、アメリカ大陸有数の資産家ボリバル家の
男子としてさまざまな家庭教師を付けられた。
このときの教師の1人シモン・ロドリゲスの考えがボリバルに大きな影響を与えている。
さらに教育を受けるため、16歳のとき1799年にスペインで任官していたおじを
頼ってヨーロッパに渡った。

南米の自然学者だったドイツ人のアレクサンダー・フンボルトに
南米独立にかける思いを語って一笑に付されるなどの屈辱的な経験もあったが、
遊学中にスペインでマリア と知り合うと、1802年に現地で結婚した。
そして、妻を連れてベネスエラに帰国した。
しかし翌1803年、熱帯の気候に耐えられなかったマリアは黄熱病で、
その生涯を閉じ、以降ボリーバルは深い喪失感を抱いて生涯再婚することはなかった。
1804年に傷心のままヨーロッパに戻り、しばらくはナポレオンに仕えたが、
このころの、南アメリカでのスペインからの独立の機運を機に、
祖国ベネズエラの独立を志ざすようになったといわれている。

ボリーバルは、踊りが上手く、非常に情熱的で、理想主義者であったといわれている。
また文筆の才能にも優れていた。
特に若い頃にモンテスキューやルソーの思想に触れ、ナポレオンの戴冠式に出席した
ことが、後年に大きな影響を与えたといわれる。
生涯を共和主義者として過ごし、君主制の導入を断固として拒否したのは
ナポレオンに失望したからであったようである。

ボリーバルの人物像
彼の名は、現在でも南アメリカ各地に大きな影響を与えている。
彼の名前が、いまや、ボリビアの国名の由来にもなり、ベネズエラには
ボリーバルの名の付いた都市(シウダ・ボリーバル)がある。
またカラカス最寄りのマイケティア国際空港はシモン・ボリーバルの名を合わせ持つ。
多くの街角には解放者ボリーバルの銅像が立ち並び、ベネズエラの地図作成の役所は
「ベネズエラ地理院シモン・ボリーバル」を正式名称とする。
カラカスのボリーバル広場と、ボゴタのボリーバル広場は、
それぞれベネズエラとコロンビアの首都の中心広場(プラサ・マジョール)である。
その他各国の州、都市、街区、街路、大学など、ボリーバルの名を冠するものは
夥しい。
ベネズエラの通貨単位はボリーバルで、紙幣の肖像画も多くは
ボリーバルのものとなっている。
1999年にベネズエラの大統領に就任したウーゴ・チャベスは、
ボリーバル革命を唱えて国名に「ボリーバル」を挿入し、ベネズエラの正式国名は
「ベネズエラ・ボリーバル共和国」となった。

 

 

 

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*上段の写真は、南米解放の父、ボリーバルの生家です。
いまは、ボリーバル博物館になっております。
警備は、ベネズエラ陸軍の兵士が守護していました。

*下段の写真は、ボリーバル博物館のスペイン系受付嬢です。
スペイン語で、優しく親切に案内してくれました。
=========
英雄シモン・ボリーバルについては、高校時代に、その人を知っていました。
私の生涯において、ボリーバルを生み育てたベネズエラを訪ねることは、
私の大きな夢の一つでした。
~~~~~~~~
シモン・ボリーバル(1783年7月24日 - 1830年12月17日)は、
南米大陸のアンデス地方5ヵ国をスペインから独立に導き、
統一したコロンビア共和国を
打ちたてようとした革命家、軍人、政治家、思想家である。
ベネズエラのカラカスに、アメリカ大陸屈指の名家の男子として生まれたが、
早いうちに妻を亡くしたことが直接、間接のきっかけとなって
ボリーバルはその後の生涯をラテンアメリカの解放と統一に捧げた。
このため、主に南米では「解放者」 (El Libertador) とも呼ばれる。

ベネズエラ国の国会議事堂付近でデモ隊の集会を見物する。

 

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**デモ隊は、国会議事堂に隣りあわせの、
ボリーバル広場で喚声を上げていました。
(1999年11月19日、金曜日に撮影)
~~~~~~~~~~~~~
ベネズエラ国の内政(日本国外務省発表):
ベネズエラでは1958年以降、二大政党による民主的な政治体制が継続してきた。
しかし、これら二大政党は、国内の貧困問題に対して効果的な政策を
実施してこなかったことから、低所得者層を中心に国民の不満が高まっていた。
1999年2月、低所得者層の高い支持を得てチャベス大統領が就任し、
同大統領は国内の貧困及び犯罪増加は過去40年間の二大政党幹部による
政治、司法の私物化、汚職が原因であるとして、
新憲法制定を始めとする抜本的な政治改革を実行した。
2000年7月には新憲法の下、大統領、国会議員、州知事等選挙を実施し、
チャベス大統領が再選された。
 チャベス政権の発足当初は、反政府勢力や伝統的支配層の抵抗から、
チャベス大統領の改革は思うように進まず、2002年4月には一時暫定政権が発足すると
いう政変劇が発生し、また、その年の12月には2ヶ月に及ぶ大統領の罷免を求める
ゼネストが発生するなど政情は不安定であった。
しかし、同ゼネスト後、政府はベネズエラ石油公社(PDVSA)を掌握し、
経済活動に対する国家管理が進んだ。
その後、チャベス大統領は徐々に自らの支持基盤を整え、貧困層に対する支援活動を
推進し、国民の高い支持を受けて2004年には大統領罷免国民投票で留任を勝ち取った。

2005年12月の国会議員選挙においては、追いつめられた野党側が選挙直前に候補者を
取り下げて選挙の正当性を否定し、反政府世論の再燃を狙ったが、
結果的に国会議席を失い、国会は与党が議席を独占することとなった。
さらに2006年12月の大統領選挙では、チャベス大統領が国民の圧倒的な支持を得て
再選された。現在、チャべス大統領は「21世紀の社会主義」建設を標榜しつつ
現体制の強化を進めており、その具体化のため、大統領の任期延長と再選制限の
撤廃等を盛り込んだ憲法改正案を国会に提出。
2007年12月には憲法改正国民投票が行われたが、僅差にて否決された。

 

 

 

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***黄金のドームに輝く国会議事堂前で、
デモを繰り広げていた連中は、
議事堂近くのボリーバル広場で、更なる集会を開いて、
喚声をあげていました。
公園の中に鎮座する銅像は、南米解放の父、ボリーバルです。

~~~~~~~~~~
ボリーバル広場は、
ベネズエラの歴史を知る上で、ここは欠かすことの出来ない広場です。
かって、スペインからの独立を叫んで囚われた人々が処刑されたのも、
最初のベネズエラ憲法が読み上げられたのも、この広場でした。

ボリーバル広場は、
町の精神的中心としての役割をはたし、セレモニーやデモなどの会場として、
使われています。
この広場のボリーバルの像が建てられたのは、1874年のことでした。

~~~~~~~~~
ベネズエラの資源

 べネズエラは、世界有数の石油産出国であり、同国経済は石油収入に大きく依存している。石油の確認可採埋蔵量は797億バレル(2006年末)と世界第6位を誇り、西半球における最大の産油国である。またオリノコ川北岸には超重質油(オリノコタール)が存在し、それが可採埋蔵量に認められた場合、埋蔵量は世界一のサウジアラビアを凌駕する3000億バレルに達するとも言われる。さらに天然ガスの確認埋蔵量は4.3兆立方メートル(2006年)と世界第9位で、この他にも鉄鉱石、ボーキサイト、金、ダイヤモンド等を豊富に産出する。

(2)最近の動き

 チャベス大統領は、2001年11月以降、炭化水素法、土地及び農村開発法など、国家経済の根幹に関わる49の法律を制定して改革を推し進めた。これに対し民間部門は強硬に反対し、2001年12月の12時間ゼネスト、2002年4月の政変(クーデター騒ぎ)、同年12月のチャベス大統領の罷免を求めた2ヶ月に及ぶ大規模ゼネスト等が相次いで発生。その結果、2002年の経済実績は大幅に悪化した。その後は、石油価格の高騰に後押しされる形で、ベネズエラ経済は回復。2006年の成長率は、石油部門が石油生産の伸び悩みから-1.9%となったが、非石油部門が11.7%成長した結果、全体で10.3%の成長を記録。2006年1月には、チャべス大統領が「オリノコベルト超重質油プロジェクトを国家の財産とすべき」と発言、具体的には同プロジェクトに進出する各合弁企業におけるベネズエラ国営石油公社(PDVSA)の出資比率を60%以上に引き上げるなど、天然資源の国家管理の強化を推進している。

 

 

 

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*写真は、ベネズエラ国会議事堂を警備する警官です。
自動小銃を右手に持ちながら、私・吉川の行動を見ていました。

ベネズエラ国会議事堂は、黄金のドーム屋根を持つ壮麗な白亜の殿堂でした。
ボリーバル広場の南西にあり、建物の密集する市街地にありました。
此の議事堂は、1872年に建てられたものです。

~~~~~~~~~
1999年11月18日、木曜日
サンパウロのグアルーリョス空港から、ベネズエラの首都カラカスへ行く。
約6時間の飛行時間を経て、夜遅く、シモン・ボリーバル空港に到着した。
シャトルバスに乗った。バスの中で、怪しい奴がスペイン語で
話しかけてきたが、いい加減な生返事をしておいた。
カラカス市内へ向かうバスの中から、暗い山腹を見た。
丘の斜面に広がっている貧民街(ランチョ)に、電灯が寂しく点在していた。
バスは、中央公園近くのバスターミナルに着いた。
タクシーに乗って、ホテル・エル・コンドルに宿を決めた。
1泊45ドルだった。部屋は広いスイートルームだった。
治安の悪いベネズエラの一人旅は、非常に緊張した。

11月19日、金曜日
朝6時に目が覚めた。外は暗かった。
ホテルの近くのバル(安い食堂)で朝食を摂った。
街の中心・セントロへ地下鉄に乗って行った。
国会議事堂前では、数百人のデモ隊が喚声をあげていた。
警官達が国会議事堂を取り巻いて警戒・警護に当っていた。
更に、デモ隊の流れは、ボリーバル広場へ移って、喚声を上げていた。

==========

ベネズエラ・ボリバル共和国。
ベネスエラ(Venezuela)という名の由来には諸説があり、
一つはイタリアのヴェネツィアに由来するというものである。
1499年この地を訪れたスペイン人の探検者、アロンソ・デ・オヘダと
アメリゴ・ヴェスプッチが、マラカイボ湖畔のグアヒーラ半島に並び建つ
インディヘナたちの水上村落を、水の都ヴェネツィアに見立て
イタリア語で「ちっぽけなヴェネツィア」("Venezuola")と命名した事に
よるとされている。

なお、国名中の「ボリバル」とは、
ラテンアメリカの解放者 シモン・ボリーバルのことである。

 

 

 

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*写真の油彩画は、リオ・デ・ジャネイロの絶景を、
コルコバードの丘から、描いたものです。
キャンバスの手前に、ビルが林立した市街、美しい港湾を描き、
キャンバス画面の中心に、奇岩のポン・ジ・アスーカルを描きました。

 

 

 

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上・下段の写真は、コルコバードの丘に建つキリスト像ですが、
小雨の霧に包まれていました。

コルコバードの丘は、海抜710mあります。
この丘に建つキリスト像は、リオ観光の目玉であり、シンボルです。
私達二人が訪れたときは、キリスト像は、霧に包まれていました。

ブラジルのリオ・ジャネイロの浜辺に行く

 

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*上・下段の写真は、リオデジャネイロの
ポン・ジ・アスーカルへ行くゴンドラ乗り場です。
~~~~~~
リオデジャネイロは、サンパウロ市と並ぶブラジルの経済的、文化的中心の町です。
カーニバルで有名です。
コパカバーナ、イパネマなどの世界的に有名な海岸を有し、
世界3大美港の一つに数えられる美しい都市です。

1960年にブラジリアに遷都するまではブラジルの首都でした。
また、1808年にナポレオンに本国領土を奪われたポルトガル王室が遷都してから
ブラジルが独立するまでは、ポルトガルの首都でした。

また、中南米有数の貿易港でもあるために、ブラジルの経済的な中心地でもあった。
近年はその地位が低下しているものの、
依然としてブラジルのみならず世界でも有数の観光地として、
ショーロ、サンバ、ボサノヴァを生んだ音楽の都としても名高いです。

人口は約800万人です。

 

 

 

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*上段の写真は、リオデジャネイロのコパカバーナ海岸の
ビーチに佇む筆者です。

*下段の写真は、リオデジャネイロのイパネマ海岸通りに佇む筆者です。
~~~~~~
リオデジャネイロは、サンパウロ市と並ぶブラジルの経済的、文化的中心の町です。
カーニバルで有名です。
コパカバーナ、イパネマなどの世界的に有名な海岸を有し、
世界3大美港の一つに数えられる美しい都市です。

1960年にブラジリアに遷都するまではブラジルの首都でした。
また、1808年にナポレオンに本国領土を奪われたポルトガル王室が遷都してから
ブラジルが独立するまでは、ポルトガルの首都でした。

また、中南米有数の貿易港でもあるために、ブラジルの経済的な中心地でもあった。
近年はその地位が低下しているものの、
依然としてブラジルのみならず世界でも有数の観光地として、
ショーロ、サンバ、ボサノヴァを生んだ音楽の都としても名高いです。

人口は約800万人です。

 

 

 

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*上段の写真は、リオデジャネイロのコパカバーナ海岸に立つ筆者です。

*下段の写真は、コパカバーナのビーチに立つ同行の友・吉沢さんです。

============

リオ・デ・ジャネイロは、ブラジルの南東部にあるリオデジャネイロ州の州都で、
ブラジル最大の港湾都市です。

"Rio de Janeiro"とは、ポルトガル語で「1月の川」という意味です。
長距離バスや航空機の行先表示などでは単純に「Rio」と略記されることもある。

~~~~~~~~~~
1999年10月6日、土曜日
同行の吉沢さんが、急用が出来たので、日本に帰国したいという。
そこで、急遽、次の旅行目的地のチリ国行きの航空券を解約して、
ブエノスアイレスのアエロ・パルケ空港へ引き返すことになった。
カラファテの町からリオ・ガジュゴスへ行き、ホテルNEVADAに一泊した。

10月7日、日曜日
朝、二人は、リオ・ガジュゴス空港から、ブエノスアイレスに引き返した。
ブエノスアイレスの空港ターミナルでは、旅行社の文野さんが、
待っていてくれた。文野さんからサンパウロ空港行きの切符を手にした。
サンパウロでは、空港から東洋人街へタクシーで移動した。
地下鉄リベルダージ駅前の「大阪プラザホテル」に宿泊した。

11月8日、月曜日
サンパウロの中心街に住む小林さんのお宅へ行き、同行の吉沢さんが
急用で日本へ帰国したい事情を話した。
吉沢さんは、リオ・デジャネイロの町には、是非、行ってから帰国すると
の申し出があった。航空券は、ジャルパックのサンパウロ支店を利用した。
日本航空のサンパウロ支店に行き、吉沢さんの成田空港への帰路日程変更の
手続きをした。

11月9日、火曜日
朝、サンパウロ空港へ行った。私達二人を乗せた飛行機は、
リオデジャネイロのサントス・ドウモント空港に到着した。
イパネマ海岸へ行くバスの中で、乗客の一人、肥満した黒人女性が、
コパカバーナのホテルTOLEDOを紹介してくれた。
私達二人は、ホテルに着くや否や、コパカバーナ海岸へ向かって歩いた。
気温は低かったので、ビーチで遊ぶ人は少なく、泳ぐ人は皆無だった。

 

 

 

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1999年11月5日、アルゼンチン国のペリト・モリノ氷河を見物しました。
独特の青白い、妖しくも美しい氷河を、観光船の船上から、見物しました。
地球温暖化が叫ばれている今日にあって、あれから、約9年間の月日が経過しましたが、
ペリト・モレノ氷河は、何万年の姿で、変わらぬ姿が今も見られる事だと思います。

 

 

 

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アルゼンチン国の世界遺産、ペリト・モレノ氷河を、
観光船の船上から見物しました。
1999年11月5日、金曜日のことです。

南米、パタゴニアのペリト・モレノ氷河を見物する

 

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アルゼンチン国のユネスコ世界遺産、ペリト・モレノ氷河の絶景です。
絶景を見ていて、そこから立ち去ることに、・・・・なんと表現したらよいか?

 

 

 

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*写真は、アルゼンチン国の雄大なペリト・モレノ氷河です。
ユネスコ世界遺産に指定されています。
カラファテの村から、バスに乗って行きました。

 

 

 

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*ペリト・モレノ氷河を油彩画で描きました。
氷河の青白い光を上手に表現したつもりです。

 

 

 

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**上・下段の写真は、世界遺産ペリト・モリノ氷河の風景です。

正面から対峙する巨大な氷塊は、青白い光を放ち、崩れ落ちる轟音を
耳にしました。。

 

 

 

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*写真は、世界遺産ペリト・モレノ氷河です

上段の写真は、ペリト・モリノ氷河を背景に、筆者です。
下段の写真は、ペリト・モリノ氷河を背景に、同行の吉沢さんです。

氷の断崖は、幅5000m、高さ60m、一番高い処は100mです。
数万年の氷です。

南米大陸の最南端の町に、民宿経営の日本人夫妻が住んでいた。

 

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*上・下段の写真は、世界遺産ペリト・モレノ氷河の風景です。

エル・カラファテから西へ、車で2時間、約85kmほど行ったところには、
ユネスコの世界遺産にも登録された、ロス・グラシアレス国立公園 で、
1番有名な氷河、ペリト・モレノ氷河がありました。
それは、まるで、氷の断崖です。

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日記
1999年11月5日、金曜日
ペリト・モレノ氷河を見た。素晴らしい風景だった。
氷河の色彩は、太陽の光を背にして、独特のものだった。
妖しいほどに緑に近い青色だった。

 

 

 

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**上・下の写真は、アルゼンチン・パタゴニア地方、
空港のあるリオ・ガジェゴスの町から、バスで移動中、
カラファテのペリト・モリノ氷河へ行く途中の風景です。

カラファテは、森と湖に囲まれた人口3,000人ばかりの小さな村です。
カラファテの村から、世界遺産ペリト・モレノ氷河の見物に行きました。
カラファテは、氷河国立公園の基地となる村です。

 

 

 

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*上段の写真は、民宿の食堂を飾る掛軸、訪問者の記念写真、
銃器などです。(何故に、銃器があるのか聞きませんでした)


*下段の写真は、地の果てウシュアイアで、
日本人で民宿を営む上野夫妻です。

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1999年11月4日、木曜日
朝、起きて、外で軽い運動するために、ボロ小屋の玄関口の扉を開けようと
思ったら、外から錠がしてあって、外に出ることは出来なかった。
本宅から上野主人がやって来るまで、ボロ小屋の中で、約2時間を待った。
上野主人が迎えに来たので、囚人小屋のような掘っ立て小屋から漸く外に出られた。

朝食を、上野夫妻の本宅の掘っ立て小屋の食堂で食べた。
夕食・朝食つき宿泊代は、148ドル=17,760円だった。
二人分だと思ったら、一人分が17,760円とのことだった。

この民宿を斡旋してくれたブエノスアイレスの旅行社文野さんの話では、
宿泊代は一人1泊:10ドル=1,200円とのことだったので、
一人17,760円の請求書には、一瞬だったが驚いた。
私は、彼らの苦しい生活のことを考えて、文句なく支払った。
無理に笑顔を作って、御礼の言葉を述べた。
友人の吉沢さんは、不機嫌なのか、御礼の言葉どころか、一言も口をきかなかった。

ウシュアイアの町から、ペリト・モリノ氷河を見物するために、飛行機で、
リオ・ガジュゴス空港へ飛んだ。そこから、カラファテの町へ行くことにした。
空港からカラファテの町まで約5時間も掛かった。
ホテルAMADOに宿を決めた。
====後日談====
2008年1月2日(水曜日)のテレビ朝日(10チャンネル)で、
午後4時頃~午後5時頃までに「世界の村で発見!!」という番組が、
ありました。芸能リポーターが、世界の僻地を訪問する番組でした。

その中で、世界最南端の町、アルゼンチン国、フエゴ島のウシュアイアに行き、
日本人の85歳になるお婆ちゃんが、一人住んでいる姿を取材していました。
このお婆ちゃんの名前は、上野綾子さんです。
このお婆ちゃんは「上野山荘」という民宿を経営していました。

1泊:素泊まり660円と触れ込みでした。
この婆ちゃんは、1963年(昭和38年)に移民船に乗って、主人と共に、
アルゼンチン国に移住した人でした。アルゼンチンに移民した後は、
主人の職業は転々と変わり、その果てに、1983年(昭和58年)に、
フエゴ島に落ち着いたということでした。主人は6年前に他界しましたが、
その後も、バックパッカー相手の「民宿・上野山荘」を経営しています。
・・・・以上・・・・と言うレポーターの報告がありました。

 

 

 

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**上下段の写真は、アルゼンチン国の
フェゴ島のビーグル水道を観光船で巡る旅で、
寒々とした風景を眼にしました。
南極大陸への船旅の発着の港が、
フェゴ島にあります。

 

 

 

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**上・下段の写真は、
フェゴ島のビーグル水道を観光船で巡る旅で、
ペンギンの群れやアシカの群れを見ました。

南米大陸の最南端の町・アルゼンチン国ウシュアイアへ行く

 

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*上・下段の写真は、
フェゴ島のビーグル水道を観光船で巡る旅で、
ペンギンの群れやアシカの群れを見ました。

 

 

 

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*上段の写真は、アルゼンチン国のフェゴ島で見た
ブエノスアイレスからの距離3063km、国道の終点を示す標識です。

*下段の写真は、アルゼンチン国フェゴ島で見たアメリカ大陸の縦断の国道、
アラスカからの距離17,848km、国道の終点を示す標識です。

 

 

 

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*上段の写真は、ティエラ・デル・フェゴ国立公園の風景です。
左手奥に見える遠くの島は、チリ国の領土との説明でした。

*中段の写真は、国立公園の中で見た動物のビーバーの巣です。
ビーバーの巣が沢山にありました。巣が川の流れをせき止めています。

1940年代、アルゼンチン政府は、毛皮を目的として50 頭の
アメリカビーバーを
南アメリカ大陸南端に位置するフエゴ諸島に移入しました。
天敵がいない土地に住み着いたビーバーは、2008年までに、
およそ10万頭に増加しました。
フエゴ諸島固有の木々を大量に噛み倒し、森林破壊の原因となっています。

*下段の写真は、国立公園の一角で、放牧されて馬たちです。

 

 

 

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*上段の写真は、ティエラ・デル・フェゴ国立公園の風景です。

*中段の写真は、国立公園の一角です。

*下段の写真は、国立公園の素晴らしい風景を背後に、
友人の吉沢さん(左)と民宿の主人・上野さんです。
~~~~~~~~~~~~~
ウシュアイアという町は、
アルゼンチン国の南端にあるフエゴ島の町です。

2005年現在の人口は約64,000人ということです。
ウシュアイアは、世界最南端の「都市」であるとされています。
町は、ビーグル水道に面しています。後背地の山が海に迫る地形であるため、
市街地はビーグル水道に沿って発展しています。

ウシュアイアの南に、人口100人に満たない小さな村(全てチリの領土)が
いくつかあります、それらは「都市」とは見なされておりません。

 

 

 

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*上段の写真は、地の果て”ウシュアイア”の町で、
唯一、日本人で民宿を営む上野さんと彼のトタン屋根の本宅です。

*下段の写真は、アルゼンチン移民の苦労話を語る上野さんです。
上野さんの民宿については、日本のテレビ番組で、たびたび報道されています。
==========

1999年11月3日、水曜日
早朝、4時に起床した。旅行社の文野さんが、ホテルまで迎えに来てくれた。
文野さんの運転する乗用車で、アエロバルケ空港へ行った。
午前6時10分発のアルゼンチン航空の飛行機に搭乗し、飛んだ。
飛行機は、地の果て「世界最南端の町」ウシュアイア空港に着陸した。

空港に着くと、旅行社の文野さんが手配してくれていた民宿の上野さんが、
私達二人を出迎えに来てくれていた。とりあえず、上野さんの宿へ行くことにした。
上野さんの宿は、トタン屋根のオンボロな掘っ立て小屋だった。
上野さんが、自分の腕で、あちこちから材料を集めて、建設した小屋だった。

お粗末な小屋の食堂で、しばらくの間、3人で歓談したあと、上野さんが
ウシュアイアの自然公園を案内するというので、彼の乗用車に乗った。
上野さんは、ティエラ・デル・フェゴ国立公園を案内してくれた。
それから、私達二人は、上野さんと別れてビーグル水道を観光船に乗って見物した。
ビーグル水道のロス・ロボス島で、ペンギンやアシカの群れを見物した。

夕食は、上野さんの民宿で、上野夫人の手料理の蟹づくしの料理を戴いた。
夕食時に、上野さんは自らの経歴・境遇などを語ってくれた。
私たち二人は、上野夫妻と長時間にわたって歓談した。
鎌倉の友人・吉澤氏は、能弁に、自分の事業について語った。

上野夫妻との会話で、ウシュアイアの町には、日本人は上野夫妻と
日本水産の社員二人、合計4人が住んでいることが分かった。
上野主人の話では、彼はある関西の大学に勤務していたが、
仕事が面白くなかったので、アルゼンチン移民の話があった時に、
移住を決めたということだった。アルゼンチンに移住して以来、
職業を転々として大変に苦労した様子を語ってくれた。
かなりキワドイ仕事をして来た話をされた。

カウボーイになって牧場で働いていた話もされた。
自分で描いた日本画を売って歩いた話もされた。
売り残りの日本画の掛軸が、部屋に飾ってあった。
上野夫人は、岸田劉生画伯の姪だと言うことが分かった。
岸田劉生の親戚について話が及んで、会話は盛り上がった。

私たち二人の宿舎は、
上野夫妻が住んでいるトタン屋根のバラック小屋(本宅)でなく、
自動車で約10分ぐらい走った山の中腹にあった。
若い青年が、宿舎で、一人働いていた。宿泊客は、私たち二人だけだった。
窓にガラスは無く、ビニール幕が張ってあった。

ここは、民宿ではなく地の果ての囚人小屋のようだった。
風呂は、ドラムカン風呂だったが、友人の吉澤氏も私も入浴しなかった。
この夜、木を荒削りした板の上で毛布一枚で寝たが、眠れなかった。

アルゼンティン国へ行く。芸術の町・カミニートを訪問する。

*上段の写真は、地の果て”ウシュアイア”の町で、
唯一、日本人で民宿を営む上野さんと彼のトタン屋根の本宅です。

*下段の写真は、アルゼンチン移民の苦労話を語る上野さんです。
上野さんの民宿については、日本のテレビ番組で、たびたび報道されています。
==========

1999年11月3日、水曜日
早朝、4時に起床した。旅行社の文野さんが、ホテルまで迎えに来てくれた。
文野さんの運転する乗用車で、アエロバルケ空港へ行った。
午前6時10分発のアルゼンチン航空の飛行機に搭乗し、飛んだ。
飛行機は、地の果て「世界最南端の町」ウシュアイア空港に着陸した。
空港に着くと、旅行社の文野さんが手配してくれていた民宿の上野さんが、
私達二人を出迎えに来てくれていた。とりあえず、上野さんの宿へ行くことにした。
上野さんの宿は、トタン屋根のオンボロな掘っ立て小屋だった。
上野さんが、自分の腕で、あちこちから材料を集めて、建設した小屋だった。
お粗末な小屋の食堂で、しばらくの間、3人で歓談したあと、上野さんが
ウシュアイアの自然公園を案内するというので、彼の乗用車に乗った。
上野さんは、ティエラ・デル・フェゴ国立公園を案内してくれた。
それから、私達二人は、上野さんと別れてビーグル水道を観光船に乗って見物した。
ビーグル水道のロス・ロボス島で、ペンギンやアシカの群れを見物した。

夕食は、上野さんの民宿で、上野夫人の手料理の蟹づくしの料理を戴いた。
夕食時に、上野さんは自らの経歴・境遇などを語ってくれた。
私たち二人は、上野夫妻と長時間にわたって歓談した。
鎌倉の友人・吉澤氏は、能弁に、自分の事業について語った。
上野夫妻との会話で、ウシュアイアの町には、日本人は上野夫妻と
日本水産の社員二人、合計4人が住んでいることが分かった。
上野主人の話では、彼はある関西の大学に勤務していたが、
仕事が面白くなかったので、アルゼンチン移民の話があった時に、
移住を決めたということだった。アルゼンチンに移住して以来、
職業を転々として大変に苦労した様子を語ってくれた。
かなりキワドイ仕事をして来た話をされた。
カウボーイになって牧場で働いていた話もされた。
自分で描いた日本画を売って歩いた話もされた。
売り残りの日本画の掛軸が、部屋に飾ってあった。
上野夫人は、岸田劉生画伯の姪だと言うことが分かった。
岸田劉生の親戚について話が及んで、会話は盛り上がった。

私たち二人の宿舎は、
上野夫妻が住んでいるトタン屋根のバラック小屋(本宅)でなく、
自動車で約10分ぐらい走った山の中腹にあった。
若い青年が、宿舎で、一人働いていた。宿泊客は、私たち二人だけだった。
窓にガラスは無く、ビニール幕が張ってあった。
ここは、民宿ではなく地の果ての囚人小屋のようだった。
風呂は、ドラムカン風呂だったが、友人の吉澤氏も私も入浴しなかった。
この夜、木を荒削りした板の上で毛布一枚で寝たが、眠れなかった。

 

 

 






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*写真は、”カミニート”の道路で販売されている絵画・写真類です。
カミニートには、画家のタマゴたちの作品が数多く売られていました。

この写真は、同行の友人・吉沢さんが撮影したものです。
私は、撮影したカミニートの風景写真のフィルムをなくしました。

カミニートには、画家のタマゴたちが、自分の作品を持ち寄って、
道筋の青空市場で、売っていました。

カミニートは、芸術の町です。
そこには、アルゼンチンタンゴの音楽が響き、路上のステージで踊る人々がいました。

カミニートは、ポカ地区にありました。
カミニートには、道路に並ぶ家々の壁やテラスや屋根を原色を使って
大胆に塗り分け、独特の一角が出来ていました。

このアイディアは、ポカ地区生まれの画家キンケラ・マルティンによるものです。
彼は、子供の頃から、ポカの港を愛し、港の風景とそこで働く人々を、
荒々しくも優しいタッチで、キャンバスに写し、その才能と感性をかわれて、
世界的に有名な画家となりました。

キンケラ・マルティンの故郷ポカを愛する気持ちは強く、自分の絵が売れると、
そのお金で、病院、小学校、幼稚園、美術館などをポカ地区に建てました。



 

 

 






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*写真は、私・吉川が描いた油彩画”ブエノスアイレスのカミニート”です。

カミニートは、ポカ地区にありました。
カミニートには、道路に並ぶ家々の壁やテラスや屋根を原色を使って
大胆に塗り分け、独特の一角が出来ていました。

このアイディアは、ポカ地区生まれの画家キンケラ・マルティンによるものです。
彼は、子供の頃から、ポカの港を愛し、港の風景とそこで働く人々を、
荒々しくも優しいタッチで、キャンバスに写し、その才能と感性をかわれて、
世界的に有名な画家となりました。

キンケラ・マルティンの故郷ポカを愛する気持ちは強く、自分の絵が売れると、
そのお金で、病院、小学校、幼稚園、美術館などをポカ地区に建てました。



 

 

 






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**上・下段の写真は、”エビータ”こと、
エバ・ペロン(元大統領夫人)の墓の前です。

エバ・ペロンの納骨堂・墓前には、1年中、花が絶えないという。
彼女の納骨堂には、三つの銅版が、彼女の栄光を讃えていた。

=> この写真は、同行の友人・吉沢さんが撮影したものです。
=> 私が撮影したフィルムは、36枚撮り1巻を紛失しました。
=> ブエノスアイレスの町とウルグアイの町を撮影したフィルムをなくしました。

” エビータ ”は、私生児として生まれ恵まれない少女時代を送ったが、
ひょんなことから女優となり、さらにはペロン大統領の夫人の座を得た。

ペロン大統領時代にはペロニスタ婦人党を組織するなど、政治面でも、
大きな業績を残した。その美貌とドラマチックな人生から人気も高かったが、
僅か33歳の若さで帰らぬ人となった。ミュージカル「エビータ」は、
私生児から女優、大統領夫人となった彼女の人生を演じたものです。



 

 

 






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*上段の写真は、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで、
”エビータ”こと、エバ・ペロンの墓への道順を聞いているところです。

*下段の写真は、エバ・ペロン=元大統領夫人”エビータ”の墓に
参拝するために、ブエノスアイレスの高級住宅地レコレータ地区の広場で、
聖母ピラール聖堂の近くで、ガイドブックを見ているところです。

=> この写真は、同行の友人・吉沢さんが撮影したものです。
=> 私が撮影したフィルムは、36枚撮り1巻を紛失しました。
=> ブエノスアイレスの町とウルグアイの町を撮影したフィルムをなくしました。

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私の日記
1999年10月31日、日曜日
昨日、航空券を買った旅行社のニッポンツアーの原山さんが、
ホテル内山田に来てくれた。アスンシオン空港まで、
自ら運転する乗用車で、市内観光ガイドをしながら、送ってくれた。
原山さんは、親切にも空港の搭乗ゲートまで、ヘルプしてくれた。

ブエノスアイレスのエセイサ国際空港から、リムジンバスに乗って、
町の中心地まで行った。ホテル・サン・アントニオに宿泊を決めた。

まず、レコレータ墓地に行った。
墓のある場所によって階級が評価されるこの国にあって、レコレータ墓地は、
永遠の眠りについたアルゼンチン人最高級の棲家(墓地)と言える。
1882年に開設され、ブエノスアイレス最古かつもっとも由緒ある墓地だ。
納骨堂は、彫像と伝統的な装飾が施されていた。とても墓地とは思えない
芸術的な墓地だった、世界的にも有名である。

高級住宅地レコレータ地区をはなれて、カミニート地区へ移動した。
カミニートは、幅7m、長さ100mほどの路地公園だった。
路地にはカラフルに塗られた家が並んでいた。路地の通りには、画家たち
絵画を売っていた。路地の入り口には、野外ステージがあった。そこで、
数人の芸人がアルゼンチンタンゴを歌い、ギター演奏し、男女が軽快に
肩をいからせて踊っていた。
レコレータ墓地のエビータ(ペロン元大統領夫人)の墓に参拝した。
レコレータ墓地には、6400の納骨堂があった。

パラグアイ国を歩く。小さな独立国だった。

 

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*上・中段・下段の写真は、首都アスンシオンの市街です。

*下段の写真は、なんという建物か聞き忘れましたが、
鉄道ターミナルではないかと想います。
バスが主要の交通手段のパラグアイ国に鉄道列車が動いているかな?

=パラグアイの治安と対策
1989年2月の政変以降、政治の民主化・自由化が進められていますが、
これと同時に治安上の緩みがでており、また、最近の不況を反映して、
泥棒、空き巣、盗難、さらには凶悪犯罪による強盗や暴行も増加し、
邦人に対する犯罪も増えていますので、油断は禁物です。

・在留邦人=在留邦人(永住者含む)3,631人(2006年)
 移住者・日系人 約7,000人

・要人の来パラグアイ
 年月 要人名
1978年 皇太子同妃両殿下、二階堂進衆議院議員・日パ協会会長
1983年 中尾栄一衆議院議員(大統領就任式特派大使)
1986年 常陸宮同妃両殿下
1990年 土屋参議院議長
1991年 鈴木外務政務次官
1993年 二階堂衆議院議員(大統領就任式特派大使)
1996年 小川外務政務次官、相沢英之衆議院議員
1997年 岡野労働大臣
1998年 有馬政府代表(大統領就任式特派大使)
1999年 高円宮同妃両殿下(非公式)
2001年 植竹外務副大臣
2003年 河本英典参議院議員(大統領就任式特派大使)
2004年 小野寺五典外務大臣政務官
2005年 福島啓史郎外務大臣政務官
2005年 保坂三蔵経済産業副大臣
2005年 河村建夫衆議院議員(日パ友好議連会長)
2006年 玉澤徳一郎衆議院議員、宮腰光寛農林水産副大臣、扇参議院議長、山中外務大臣政務官(移住70周年記念祭典出席)、秋篠宮殿下
2007年 山際大志郎衆議院議員、井上信治衆議院議員

 

 

 

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*上段の写真は、パラグアイ国の大統領官邸です。
19世紀後半、フランス留学の経験ある大統領、フランシスコ・ソラノ・ロペスが
パリのルーブル美術館を模して建てたといわれています。

*下段の写真は、パラグアイ川の河畔で見た、廃船です。
この廃船を、大統領官邸近くで見ました。
政府の建物のウラには、みすぼらしい風景がありました。

= パラグアイ国の内政
 1954年から35年に亘ったストロエスネル軍事独裁政権では、政治・経済の安定を達成する一方、厳しい抑圧体制が敷かれた。同政権は1989年2月、ロドリゲス将軍のクーデターにより倒壊。ロドリゲス政権は、「民主化と人権尊重」を掲げ、政治活動・言論の自由、労働者の団結権等を保証する新憲法を1992年に公布。

 1993年8月、同国で初めての民主的選挙により文民大統領に就任したワスモシ大統領は人権の尊重、司法権刷新、憲法順守等、民主化定着の観点から政治的には成果を上げ、特に軍の政治・経済・社会的影響力を大きく後退させたが、失業者の増加、貧富の差の拡大等、社会経済面では成果に乏しかった。

 1998年8月に就任したクーバス大統領は、信頼できる司法制度の確立、経済活性化、犯罪撲滅等を掲げ、民主主義強化への積極的姿勢を見せたが、オビエド将軍の釈放措置を巡り、国会、最高裁と対立、国会における重要法案の審議が停滞し、大統領弾劾の動きが出る中、1999年3月、アルガーニャ副大統領が暗殺され、その後の混乱の責任をとり、クーバス大統領は辞任。憲法規定に則り、翌日ゴンサレス上院議長が新大統領に就任。就任後、汚職容疑により、下院は同大統領の罷免を議決したが、2003年2月に上院が否決したことにより事態は終息した。同年4月27日、大統領選挙が実施され、ドゥアルテ与党国民共和協会(ANR:通称コロラド党)党首が選出された。
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私の日記:1999年10月30日、土曜日
市内バスで、町の中心地に行った。バスの乗客は、二人だけだった。
バスの運転手が、街に不案内の私達二人の日本人にスペイン語で、
街のガイドをしてくれた。バスは、決まったコースを外れていた。

英雄広場では「土曜の市」が開かれていた。
大規模の市場「メルカド4」へ行った。
霊廟、大統領官邸などを見て、パラグアイ川を散策した。

 

 

 

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*写真は、パラグアイ国の首都アスンシオンにある霊廟です。
パリのアンバリッド(ナポレオンの墓がある)を模して造られた
ドーム型の霊廟です。英雄広場の一角にありました。

初代大統領のカルロス・アントニオ・ロペスと
その息子のフランシスコ・ソラノ・ロペスほか、戦争の英雄たちが
祀られていました。入り口には、パラグアイ軍の正装をした衛兵が
警備していました。

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国名:パラグアイ共和国(Republic of Paraguay)2008年2月現在
一般事情:(1)面積=40万6,752平方キロメートル(日本の約1.1倍)
(2)人口=600万人(2006年 世銀)(3)首都=アスンシオン(人口約50万人)
(4)民族=混血(白人と先住民)97%、欧州系2%、その他1%
(5)言語=スペイン語、グァラニー語(ともに公用語)
(6)宗教=主にカトリック(信教の自由は憲法で保障)

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1999年10月29日、金曜日
パラグアイ国の首都アスンシオンでは、「ホテル内山田」に投宿した。
この宿は、東洋人のみを宿泊させる日本人経営のホテルでした。
夜は、ホテル併設のレストランで、てんぷら定食を食べたが、
実に美味しかった。

 

 

 

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*写真は、ブラジル国から、パラグアイ国の首都へ向かう国際バスで、
途中の休憩時に、パラグアイのバス停で、出遭った物売りのおじさんです。

左手を失った人にカメラを向けるのを躊躇しました。
一袋の果物を買ってあげました。
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1999年10月29日、金曜日
2日間の「イグアスの滝」見物を終えて、今日は、パラグアイ国へバスで移動した。
ブラジル国からパラグアイ国へ、徒歩で、国境を通過するときに、
ブラジル出国管理事務所で、自分のパスポートに、出国スタンプを押して貰わずに、
パラグアイ国の入国管理事務所に行ったら、入国許可が下りなかった。

やむをえず、再び、国境のパラナ川にかかるアミスタッド橋を歩いて渡った。
ブラジル側の国境管理事務所で、出国スタンプを押して貰ったが、暑さの中、
重いリュックを背負って、国境の長い鉄橋を一往復したので、ひどく疲れた。

パラグアイの国境の町、ショウダー・デル・エステの町は、闇マーケットが
広がっていた。数百軒の店が並ぶ広大なマーケットだった。しかも、貧しい
異様な雰囲気の商業市場だった。国民所得の低さが分かる町だった。

この町に留まることに躊躇した。バス・ターミナルで考えた末に、
一気に、パラグアイの首都アスンシオンへ向かう国際バスに乗車した。
(続く)

 

 

 

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轟きとともに溢れ出る果てしない怒涛。
天地創造を思わせる自然の驚異は、
見るものを魅了してやまない。
水爆の中を、今日も、世界から観光客がやって来る。

*上段の写真は、イグアスの滝です。
ブラジル側の滝を、まじかに、見物しました。
滝の轟音で、会話はできませんでした。

*下段の写真は、ブラジル側から見たイグアスの滝です。
大小、様々な滝があって、2日間にわたり、滝ばかり見ていました。
(1999年10月27日~28日)

このイグアスの滝は、世界自然遺産ですが、
10,000年前も、10,000年後も、変わらぬ景観だと思います。

2019年11月29日 (金)

ブラジルで、世界三大瀑布のイグアスの滝を見物する

 

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*上段の写真は、イグアスの滝です。
ブラジル側からの景観です。

ブラジルからのアプローチは、
滝へのゲートウェイとなる町は、パラナ州フォス・ド・イグアスです。
街中から空港経由国立公園入口行きの路線バスに乗り、
終点にあるビジターセンターで専用のシャトルバスに乗り換え、
終点の一つ手前のホテル前から遊歩道を歩いて滝まで行くというのが
一般的なルートです。
アルゼンチン側とは景観が多少異なり、こちらはそれほど多くの滝はないが、
一つ一つの滝が大きいのが特徴であり、アルゼンチン側にある「悪魔の喉笛」と
変わらないくらい迫力のあるシーンを何度か楽しむことができる。

*下段の写真は、イグアスの滝です。
ブラジル側から見た景観です。
素晴らしい景観に興奮しました。
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日記:1999年10月28日、木曜日
今日は、ブラジル側の「イグアスの滝」見物をした。
「虹の橋・展望橋」から、イグアスの滝の飛沫を浴びながら見物した。
「イグアスの滝」の見物は、興奮と感動だった。

 

 

 

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緑の森の中、激流と飛沫を上げる滝のカーテンが、美しいコントラストを見せる。
飛沫を浴びながら、滝の中の遊歩道を進む。大自然を満喫するひと時だ。

*上段の写真は、イグアスの滝を見物中の吉川です。

*中段の写真は、イグアスの滝です。
イグアスの滝は一つの滝ではなく、大小約275の滝が半円形で70mの高さから流れ落ちる大瀑布です。
この大瀑布の最大の見どころは、「悪魔の喉笛」(Garganta del Diablo)。
「悪魔の喉笛」からは、轟音とともに流れ落ちる水と水しぶきが作る、多数の虹を見ることもできます。

*下段の写真は、イグアスの滝を、イグアス川から見物するためのボートです。
大小の観光船が、イグアス川の各所から発着しています。

 

 

 

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*上段の写真は、イグアスの滝です。
アルゼンチン側の滝です。
写真の男性は、友人の吉沢さんです。

*中段の写真は、イグアスの滝です。
アルゼンチン側の滝です。
世界最大の瀑布を見て、感動と興奮しました。

*下段の写真は、イグアスの滝です。
見物中に親しくなったアルゼンチンの女子高校生を撮影しました。

 

 

 

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*上段の写真は、「イグアスの滝」です。
アルゼンチン側の滝です。
写真の女性は、見物中に親しくなったアルゼンチンの女子高校生です。

イグアスの滝は、最大落差80メートル、滝幅4kmで、
ブラジル・アルゼンチン・パラグアイの3ヶ国にまたがっています。
イグアス【IGUAZ】とは原住民のグアラニー族の言葉で水、
【IGU】 すばらしい【AZU】となります。

*下段の写真は、「イグアスの滝」です。
写真の女性は、見物中に親しくなったアルゼンチンの女子高校生です。

イグアスの滝は、1984年にアルゼンチン側がユネスコ世界遺産に登録された。
1986年にはブラジル側もユネスコ世界遺産に登録された。
イグアスの滝は、ブラジル側とアルゼンチン側があるかというと、
滝があるイグアス川【 RIO IGUAZU 】によって、
ブラジルとアルゼンチンの国境が分かれているからです。

 

 

 

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*上段の写真は、世界最大の瀑布、「イグアスの滝」を見物するため
サンパウロ空港を出発する時の吉沢さん(左)と吉川(右)です。

*中段の写真は、イグアスの滝です。
飛行機で、ブラジル側のイグアスの町に到着後、直ちに、
アルゼンチン側の「イグアスの滝」を見物しました。

*下段の写真は、アルゼンチン側の「イグアスの滝」を見物中に、
親しくなったアルゼンチンの女子高校生達です。

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10月27日、水曜日
小林さんのお宅で、10日間、大変にお世話になった。
今日は、南米諸国を周遊する出発日だった。
吉沢さんとの二人一組で、冒険の旅が始まった。
最初の目的地は、大瀑布「イグアスの滝」だった。
小林さんが、グアルーリョス空港まで、自動車で見送りしてくれた。
午前11時40分に、私たち二人を乗せた飛行機は飛び立った。
飛行機は、ブラジル南部のジャングル地帯を越えて、
約1時間40分で、イグアス空港へ到着した。
イグアスの街に着くや否や、「イグアスの滝」へ見物に出かけた。
乗り合いバスで、アルゼンチン側へ行った。
遊歩道を下って歩き、イグアス川の河岸に着いた。
壮大な「悪魔の喉笛の滝」を見物した。
宿泊は、ホテル・DANNYに泊った。

ブラジル国、サンパウロ郊外の東山農場などを訪問する

 




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南米大陸、ブラジル国のサンパウロの郊外で、農場を見学する
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*写真は、東山農場の敷地の一角です。
写真の木は、ブラジルの国名になったブラジルという木だった思いますが、
記憶違いかな?

この農場はサンパウロから車で2時間ほどのところにあります。

ここの歴史は古く、1798年に開拓者がポルトガル政府から、
6400Haの農地所有を認められたことに始まります。

戦前に三菱財閥の岩崎久弥氏がその一部を購入し、
岩崎家固有の東山事業として、台湾・韓国・マレーシアなど、
数カ国の農園と共に所有していましたが、敗戦によりそのほとんどを失いました。

今は、日本の小岩井農場とブラジルの東山農場だけになっています。
ここも、戦争中はブラジル政府に没収されていましたが、
コーヒーの害虫の天敵であるハエの研究を手がけるなど、
農業への多大な功績を認められ、戦後5年という速さで返還されました。

現在120万本のコーヒーが栽培されているそうです。
ここのコーヒーは小岩井農場で味わえるそうです。
今では、ブラジル中のコーヒーのほとんどが、
この農園の子孫といっても過言ではないそうです。

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10月26日、火曜日
吉沢さんと二人で、地下鉄に乗ってリベルダージの東洋人街へ行った。
吉沢さんは、地下鉄が綺麗なので、驚いていた。
東洋人街と言っても、いまなお、日本人向けの店が多かった。

昼食を「和食の店、やまが」で、天丼を食べた。
美味しかった。

吉沢さんは、地下鉄のリベルダージ駅の駅前で。
宝石に興味があるらしく、丸山宝石店へ入っていった。
店員さんが、私たち二人の日本人を上客と思ってか、
うやうやしく、2階・奥の高級品のある売り場へ案内してくれた。

 

 

 






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南米大陸、ブラジル国のサンパウロの郊外へ行く
日本の吉田茂首相や外務大臣・麻生太郎が訪れた農場へ行く
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*上段の写真は、東山農場(とうざんのうじょう)の応接室です。
右から友人の吉沢氏、農場支配人の高岡氏、その左が私・吉川です。
吉川の後ろ立っている人は、東山農場の従業員さんです。
支配人さんは、東山農場で作ったコーヒーをご馳走してくれました。

*下段の写真は、見渡す限り広大な農場を案内してくれた東山農場の
従業員さんと一緒の記念写真です。さすが三菱財閥が誇るブラジル農場です。
撮影場所は、農場で、一番に高いところにある一心亭の展望台です。

次のURLでは、日本国外務省が、東山農場について記述しています。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/g_aso/me_csa_07/brazil_farm.html

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10月25日、月曜日
今回の南米旅行の相棒である吉沢さんを迎えに、サン・パウロ空港へ迎えに行った。
吉沢さんは、機中24時間の疲れを顧みず、一休みした後、東山農場へ行った。

東山農場は、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎の直系の子孫が経営していた。
支配人の高岡さんが歓迎してくれた。高岡さんは、私の大学の後輩だった。

東山農場は、コーヒー園をも経営していた。NHKのドラマにも、この農場が
たびたび利用された。

夜は、小林さんが吉沢さんを歓迎して、ブラジル料理店「BARBACOR」へ
行った。
鎌倉市で、レストランを経営している吉沢さんは、ブラジル料理店のダイナミックな
サービスぶりに、目を丸くして驚嘆していた。



 

 

 






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*上段の写真は、サンパウロ郊外にある蚤の市の画廊です。
地元、ブラジル人の作品を沢山に販売していました。

*下段の写真は、サンパウロ郊外の蚤の市で、
青空の下で、絵画などを売っている店です。

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10月24日、日曜日
サンパウロ郊外の蚤の市へ行った。
パリの蚤の市に勝るとも劣らぬ広大なスケールの市場だった。
多くの店で、絵画を沢山に販売していた。

長さ30cm木彫りの馬を記念品として買った。
木彫りの原木は、「パウ・ブラジル」という木である。
此の木の名前が国名になった。



 

 

 






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南米大陸、ブラジル国のサンパウロを歩く

*写真は、サンパウロ市の有名なイビラブエラ公園です。

大池の向こうに、サンパウロのビル群が見えます。

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1999年10月23日、土曜日
昼食後、小林夫妻と、サンパウロで有名なイビラプエラ公園に行った。
公園内の近代美術館、日本館に入館した。
近代美術館には、ブラジル人の現代美術作品が展示されていた。
作品は、新興国らしい勢いのあ