« パラグアイ国を歩く。小さな独立国だった。 | トップページ | 南米大陸の最南端の町・アルゼンチン国ウシュアイアへ行く »

2019年11月30日 (土)

アルゼンティン国へ行く。芸術の町・カミニートを訪問する。

*上段の写真は、地の果て”ウシュアイア”の町で、
唯一、日本人で民宿を営む上野さんと彼のトタン屋根の本宅です。

*下段の写真は、アルゼンチン移民の苦労話を語る上野さんです。
上野さんの民宿については、日本のテレビ番組で、たびたび報道されています。
==========

1999年11月3日、水曜日
早朝、4時に起床した。旅行社の文野さんが、ホテルまで迎えに来てくれた。
文野さんの運転する乗用車で、アエロバルケ空港へ行った。
午前6時10分発のアルゼンチン航空の飛行機に搭乗し、飛んだ。
飛行機は、地の果て「世界最南端の町」ウシュアイア空港に着陸した。
空港に着くと、旅行社の文野さんが手配してくれていた民宿の上野さんが、
私達二人を出迎えに来てくれていた。とりあえず、上野さんの宿へ行くことにした。
上野さんの宿は、トタン屋根のオンボロな掘っ立て小屋だった。
上野さんが、自分の腕で、あちこちから材料を集めて、建設した小屋だった。
お粗末な小屋の食堂で、しばらくの間、3人で歓談したあと、上野さんが
ウシュアイアの自然公園を案内するというので、彼の乗用車に乗った。
上野さんは、ティエラ・デル・フェゴ国立公園を案内してくれた。
それから、私達二人は、上野さんと別れてビーグル水道を観光船に乗って見物した。
ビーグル水道のロス・ロボス島で、ペンギンやアシカの群れを見物した。

夕食は、上野さんの民宿で、上野夫人の手料理の蟹づくしの料理を戴いた。
夕食時に、上野さんは自らの経歴・境遇などを語ってくれた。
私たち二人は、上野夫妻と長時間にわたって歓談した。
鎌倉の友人・吉澤氏は、能弁に、自分の事業について語った。
上野夫妻との会話で、ウシュアイアの町には、日本人は上野夫妻と
日本水産の社員二人、合計4人が住んでいることが分かった。
上野主人の話では、彼はある関西の大学に勤務していたが、
仕事が面白くなかったので、アルゼンチン移民の話があった時に、
移住を決めたということだった。アルゼンチンに移住して以来、
職業を転々として大変に苦労した様子を語ってくれた。
かなりキワドイ仕事をして来た話をされた。
カウボーイになって牧場で働いていた話もされた。
自分で描いた日本画を売って歩いた話もされた。
売り残りの日本画の掛軸が、部屋に飾ってあった。
上野夫人は、岸田劉生画伯の姪だと言うことが分かった。
岸田劉生の親戚について話が及んで、会話は盛り上がった。

私たち二人の宿舎は、
上野夫妻が住んでいるトタン屋根のバラック小屋(本宅)でなく、
自動車で約10分ぐらい走った山の中腹にあった。
若い青年が、宿舎で、一人働いていた。宿泊客は、私たち二人だけだった。
窓にガラスは無く、ビニール幕が張ってあった。
ここは、民宿ではなく地の果ての囚人小屋のようだった。
風呂は、ドラムカン風呂だったが、友人の吉澤氏も私も入浴しなかった。
この夜、木を荒削りした板の上で毛布一枚で寝たが、眠れなかった。

 

 

 






イメージ 1

*写真は、”カミニート”の道路で販売されている絵画・写真類です。
カミニートには、画家のタマゴたちの作品が数多く売られていました。

この写真は、同行の友人・吉沢さんが撮影したものです。
私は、撮影したカミニートの風景写真のフィルムをなくしました。

カミニートには、画家のタマゴたちが、自分の作品を持ち寄って、
道筋の青空市場で、売っていました。

カミニートは、芸術の町です。
そこには、アルゼンチンタンゴの音楽が響き、路上のステージで踊る人々がいました。

カミニートは、ポカ地区にありました。
カミニートには、道路に並ぶ家々の壁やテラスや屋根を原色を使って
大胆に塗り分け、独特の一角が出来ていました。

このアイディアは、ポカ地区生まれの画家キンケラ・マルティンによるものです。
彼は、子供の頃から、ポカの港を愛し、港の風景とそこで働く人々を、
荒々しくも優しいタッチで、キャンバスに写し、その才能と感性をかわれて、
世界的に有名な画家となりました。

キンケラ・マルティンの故郷ポカを愛する気持ちは強く、自分の絵が売れると、
そのお金で、病院、小学校、幼稚園、美術館などをポカ地区に建てました。



 

 

 






イメージ 1

*写真は、私・吉川が描いた油彩画”ブエノスアイレスのカミニート”です。

カミニートは、ポカ地区にありました。
カミニートには、道路に並ぶ家々の壁やテラスや屋根を原色を使って
大胆に塗り分け、独特の一角が出来ていました。

このアイディアは、ポカ地区生まれの画家キンケラ・マルティンによるものです。
彼は、子供の頃から、ポカの港を愛し、港の風景とそこで働く人々を、
荒々しくも優しいタッチで、キャンバスに写し、その才能と感性をかわれて、
世界的に有名な画家となりました。

キンケラ・マルティンの故郷ポカを愛する気持ちは強く、自分の絵が売れると、
そのお金で、病院、小学校、幼稚園、美術館などをポカ地区に建てました。



 

 

 






イメージ 1

イメージ 2

**上・下段の写真は、”エビータ”こと、
エバ・ペロン(元大統領夫人)の墓の前です。

エバ・ペロンの納骨堂・墓前には、1年中、花が絶えないという。
彼女の納骨堂には、三つの銅版が、彼女の栄光を讃えていた。

=> この写真は、同行の友人・吉沢さんが撮影したものです。
=> 私が撮影したフィルムは、36枚撮り1巻を紛失しました。
=> ブエノスアイレスの町とウルグアイの町を撮影したフィルムをなくしました。

” エビータ ”は、私生児として生まれ恵まれない少女時代を送ったが、
ひょんなことから女優となり、さらにはペロン大統領の夫人の座を得た。

ペロン大統領時代にはペロニスタ婦人党を組織するなど、政治面でも、
大きな業績を残した。その美貌とドラマチックな人生から人気も高かったが、
僅か33歳の若さで帰らぬ人となった。ミュージカル「エビータ」は、
私生児から女優、大統領夫人となった彼女の人生を演じたものです。



 

 

 






イメージ 1

イメージ 2

*上段の写真は、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで、
”エビータ”こと、エバ・ペロンの墓への道順を聞いているところです。

*下段の写真は、エバ・ペロン=元大統領夫人”エビータ”の墓に
参拝するために、ブエノスアイレスの高級住宅地レコレータ地区の広場で、
聖母ピラール聖堂の近くで、ガイドブックを見ているところです。

=> この写真は、同行の友人・吉沢さんが撮影したものです。
=> 私が撮影したフィルムは、36枚撮り1巻を紛失しました。
=> ブエノスアイレスの町とウルグアイの町を撮影したフィルムをなくしました。

=========
私の日記
1999年10月31日、日曜日
昨日、航空券を買った旅行社のニッポンツアーの原山さんが、
ホテル内山田に来てくれた。アスンシオン空港まで、
自ら運転する乗用車で、市内観光ガイドをしながら、送ってくれた。
原山さんは、親切にも空港の搭乗ゲートまで、ヘルプしてくれた。

ブエノスアイレスのエセイサ国際空港から、リムジンバスに乗って、
町の中心地まで行った。ホテル・サン・アントニオに宿泊を決めた。

まず、レコレータ墓地に行った。
墓のある場所によって階級が評価されるこの国にあって、レコレータ墓地は、
永遠の眠りについたアルゼンチン人最高級の棲家(墓地)と言える。
1882年に開設され、ブエノスアイレス最古かつもっとも由緒ある墓地だ。
納骨堂は、彫像と伝統的な装飾が施されていた。とても墓地とは思えない
芸術的な墓地だった、世界的にも有名である。

高級住宅地レコレータ地区をはなれて、カミニート地区へ移動した。
カミニートは、幅7m、長さ100mほどの路地公園だった。
路地にはカラフルに塗られた家が並んでいた。路地の通りには、画家たち
絵画を売っていた。路地の入り口には、野外ステージがあった。そこで、
数人の芸人がアルゼンチンタンゴを歌い、ギター演奏し、男女が軽快に
肩をいからせて踊っていた。
レコレータ墓地のエビータ(ペロン元大統領夫人)の墓に参拝した。
レコレータ墓地には、6400の納骨堂があった。

« パラグアイ国を歩く。小さな独立国だった。 | トップページ | 南米大陸の最南端の町・アルゼンチン国ウシュアイアへ行く »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« パラグアイ国を歩く。小さな独立国だった。 | トップページ | 南米大陸の最南端の町・アルゼンチン国ウシュアイアへ行く »