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2019年11月30日 (土)

ペルー国のクスコとマチュピチュを観光旅行する

  


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*写真は、クスコ近郊のサクサイワマンの要塞跡です。

此処は、クスコの東を守る堅固な要塞跡でした。
スペイン人に反逆を企てたマンコ・インカは、サクサイワマンの
要塞に2万人の兵士とともに陣どった。それは、1536年5月でした。

しかし、夜は戦わないインカ兵は、そのスキを突かれ、作戦は失敗に
終わり、20mあった城壁もその上から聳えていた円塔も大部分壊された。

遺蹟は、巨石を3層に積み上げて造られていた。石組みの技術は、
インカのそれらしくぴったりとかみ合い、特に内側は高さ5m、360トン
もある巨石が使われていたところもあった

 

 

 






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*写真は、クスコの住宅街です。
印象として、クスコの町には、石組みの壁を持つ家は、
むしろ少なくて、写真のような土壁を持つ家が多かった。

私の日記:1999年12月1日(水曜日)
朝食時に、ペンション花田に宿泊している日本人バックパッカーの若者達と
語り合った。若者達は、世界の後進国を放浪していた。
インド、イラン、メキシコなどを放浪した冒険物語を聞いた。

午後は、旅行会社の市内観光ツアーに参加した。
市内のアルマス広場、カテドラル、サン・ブラス教会、サント・ドミンゴ教会等を
見学した。そして、近郊の旧蹟であるサクサイワマン、ケンコー、プカプカラ、
タンボマチャイなどを見学した。

この日、昼食と夕食は、クスコ市内のレストラン「金太郎」で食べた。
日本人女性がつくった心の籠もった和食料理だった。



 

 

 






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*上段の写真は、マチュピチュ遺蹟について説明する
ガイド嬢(中央のメガネをかけた青い上着の女性)と、
日本人観光団体の一団です。

*下段の写真は、偶然に出会った大学時代の友人(左)と
一緒に、記念写真を撮る。

~~~~~~~~~
1999年11月30日、火曜日

マチュピチュの見物が終わった後が、恐怖の連続だった。

友人達の日本の団体観光客は、午後2時ごろに山を降りた。
彼ら大勢の日本人団体観光客は、マチュピチュ駅を午後3時発の列車で、
列車は、満員の乗客を乗せて、去って行った。

次に、午後4時発の列車も、満席の乗客を乗せてマチュピチュ駅を出て行った。

広くて薄暗い駅の構内には、私一人だった。誰一人、構内には旅客はいなかった。
二人いた筈の駅員も、どこかへ行ってしまった。辺りには、人間の姿はなかった。

午後5時が過ぎた。谷間にあるマチュピチュ駅に、暗い夜の帳が下りた。
電灯のつかない暗い駅舎では、私は不安と恐怖を感じた。
午後6時になっても、広く大きな駅舎には、私ひとりだった。

6時半発の乗車予約券を持っているのは私一人だった。
強盗が出没するという噂を耳にしていたので、私は恐怖に震えた。
6時30分発の列車は、遅れて6時55分に、駅のホームに来た。

駅員が、どこからかやって来て、改札口に現れた。
客車は、1両のみだった。
客車に乗ったものの、電灯が点いていない列車内には、
私以外に、誰ひとり乗客はいなかった。
発車間際に、5人の乗客が現れた。

列車の走行中も、客車内は暗闇だった。
電灯の点かない真っ暗闇の中で、約4時間を不安と恐怖に震えて過ごした。
列車は、午後11時ごろに、終着駅のクスコのサン・ペドロ駅に着いた。

終着駅サン・ペドロ駅から、タクシーに乗ったものの、
タクシー運転手は、私が目指す宿が見付からないと言って、
私を暗闇の道路に降ろして、去って行きました。

首絞め強盗が現れる噂の深夜の小道をトボトボ歩いて、
昨日の昼間歩いた記憶を頼りに、日本人経営の安宿に帰った。
幸いにも、今日の一日、無事だった。



 

 

 






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*上段の写真は、マチュピチュです。
*下段の写真は、日本人団体観光客です。

~~~~~~~出典: フリー百科事典『ウィキペディア~~~~~~

マチュ・ピチュ(Machu Picchu)は、現地語では「老いた峰」の意味で、
よく保存されたインカの遺跡である。
ペルーのウルバンバ谷 (Urubamba valley) に沿う高い山の尾根
(標高約6,750ft、2,057m)に位置し、山裾からはその存在を確認できない。

しばしば《インカの失われた都市》あるいは《空中の楼閣》と呼ばれる。

この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。
遺跡の面積は約13Km2で、石の建物の総数は約200戸が数えられる。
マチュ・ピチュに関する多くの謎が未だに解明されていない。

熱帯山岳樹林帯の中央にあり、植物は多様性に富んでいる。
行政上クスコと同じ地域に属している。
現在ペルー国内では10ヶ所あるユネスコの世界遺産のうちでは
最初にクスコと同時(1983年)に指定された。



 

 

 






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*上段の写真はマチュピチュです。
*下段の写真は、昨日、古都クスコで、
偶然に遭遇した大学時代の友人森分君(右)に会いました。

~~~~~~~NHKのマチュピチュの説明文~~~~~~~
南米・アンデス山脈を望む山の頂に忽然(こつぜん)と広がるマチュピチュ。
インカ帝国が築き上げたこの都市は標高2400メートルの断崖絶壁の上にあり、
麓からは全く見ることができないきわめて特殊な立地にあるため「驚異の空中都市」
といわれています。
16世紀にインカ帝国を征服したスペイン人さえも気付かず、
20世紀に入るまでその存在は世界に知られていませんでした。
1911年、アメリカ人歴史家・ハイラムビンガムによって世界に紹介された
マチュピチュは20世紀考古学界の最大の発見と賞されたものの、
これがいったいなんのための都市だったのか長年謎とされてきました。

インカ帝国誕生の地、インカ帝国最後の都、処女の館と諸説が飛び交っていたが
決め手を欠いていました。
インカは文字を持たなかったため、手がかりになる文献資料がないということも
影響しています。しかし、今回の取材では新たな仮説にたどり着きました。
ビンガムが持ち帰った400点以上の出土品と、174体の人骨、
スペイン人による古文書から、マチュピチュは、
15世紀の第9代インカ皇帝の築き上げた王直轄の都市であることがわかったのです。
さらに住居跡の調査から、貴族や技術者など身分の異なる500人以上の人々が
ここで暮らし、段々畑で農作業をしたり、金属加工を行なったりなどの生活が
繰り広げられていたことがわかりました。
その姿は現在、マチュピチュ付近の農村で暮らすアンデスの人々と重なっています。
またおびただしい数の石造建築物をいかにして作り出したか、
その材料調達方法や、建築方法も次第に明らかになりました。
車輪を持たなかったインカの人々が、円柱状の石を転がすことで運搬していたことも
確認されました。

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