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2019年11月30日 (土)

南米大陸の最南端の町・アルゼンチン国ウシュアイアへ行く

 

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*上・下段の写真は、
フェゴ島のビーグル水道を観光船で巡る旅で、
ペンギンの群れやアシカの群れを見ました。

 

 

 

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*上段の写真は、アルゼンチン国のフェゴ島で見た
ブエノスアイレスからの距離3063km、国道の終点を示す標識です。

*下段の写真は、アルゼンチン国フェゴ島で見たアメリカ大陸の縦断の国道、
アラスカからの距離17,848km、国道の終点を示す標識です。

 

 

 

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*上段の写真は、ティエラ・デル・フェゴ国立公園の風景です。
左手奥に見える遠くの島は、チリ国の領土との説明でした。

*中段の写真は、国立公園の中で見た動物のビーバーの巣です。
ビーバーの巣が沢山にありました。巣が川の流れをせき止めています。

1940年代、アルゼンチン政府は、毛皮を目的として50 頭の
アメリカビーバーを
南アメリカ大陸南端に位置するフエゴ諸島に移入しました。
天敵がいない土地に住み着いたビーバーは、2008年までに、
およそ10万頭に増加しました。
フエゴ諸島固有の木々を大量に噛み倒し、森林破壊の原因となっています。

*下段の写真は、国立公園の一角で、放牧されて馬たちです。

 

 

 

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*上段の写真は、ティエラ・デル・フェゴ国立公園の風景です。

*中段の写真は、国立公園の一角です。

*下段の写真は、国立公園の素晴らしい風景を背後に、
友人の吉沢さん(左)と民宿の主人・上野さんです。
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ウシュアイアという町は、
アルゼンチン国の南端にあるフエゴ島の町です。

2005年現在の人口は約64,000人ということです。
ウシュアイアは、世界最南端の「都市」であるとされています。
町は、ビーグル水道に面しています。後背地の山が海に迫る地形であるため、
市街地はビーグル水道に沿って発展しています。

ウシュアイアの南に、人口100人に満たない小さな村(全てチリの領土)が
いくつかあります、それらは「都市」とは見なされておりません。

 

 

 

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*上段の写真は、地の果て”ウシュアイア”の町で、
唯一、日本人で民宿を営む上野さんと彼のトタン屋根の本宅です。

*下段の写真は、アルゼンチン移民の苦労話を語る上野さんです。
上野さんの民宿については、日本のテレビ番組で、たびたび報道されています。
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1999年11月3日、水曜日
早朝、4時に起床した。旅行社の文野さんが、ホテルまで迎えに来てくれた。
文野さんの運転する乗用車で、アエロバルケ空港へ行った。
午前6時10分発のアルゼンチン航空の飛行機に搭乗し、飛んだ。
飛行機は、地の果て「世界最南端の町」ウシュアイア空港に着陸した。

空港に着くと、旅行社の文野さんが手配してくれていた民宿の上野さんが、
私達二人を出迎えに来てくれていた。とりあえず、上野さんの宿へ行くことにした。
上野さんの宿は、トタン屋根のオンボロな掘っ立て小屋だった。
上野さんが、自分の腕で、あちこちから材料を集めて、建設した小屋だった。

お粗末な小屋の食堂で、しばらくの間、3人で歓談したあと、上野さんが
ウシュアイアの自然公園を案内するというので、彼の乗用車に乗った。
上野さんは、ティエラ・デル・フェゴ国立公園を案内してくれた。
それから、私達二人は、上野さんと別れてビーグル水道を観光船に乗って見物した。
ビーグル水道のロス・ロボス島で、ペンギンやアシカの群れを見物した。

夕食は、上野さんの民宿で、上野夫人の手料理の蟹づくしの料理を戴いた。
夕食時に、上野さんは自らの経歴・境遇などを語ってくれた。
私たち二人は、上野夫妻と長時間にわたって歓談した。
鎌倉の友人・吉澤氏は、能弁に、自分の事業について語った。

上野夫妻との会話で、ウシュアイアの町には、日本人は上野夫妻と
日本水産の社員二人、合計4人が住んでいることが分かった。
上野主人の話では、彼はある関西の大学に勤務していたが、
仕事が面白くなかったので、アルゼンチン移民の話があった時に、
移住を決めたということだった。アルゼンチンに移住して以来、
職業を転々として大変に苦労した様子を語ってくれた。
かなりキワドイ仕事をして来た話をされた。

カウボーイになって牧場で働いていた話もされた。
自分で描いた日本画を売って歩いた話もされた。
売り残りの日本画の掛軸が、部屋に飾ってあった。
上野夫人は、岸田劉生画伯の姪だと言うことが分かった。
岸田劉生の親戚について話が及んで、会話は盛り上がった。

私たち二人の宿舎は、
上野夫妻が住んでいるトタン屋根のバラック小屋(本宅)でなく、
自動車で約10分ぐらい走った山の中腹にあった。
若い青年が、宿舎で、一人働いていた。宿泊客は、私たち二人だけだった。
窓にガラスは無く、ビニール幕が張ってあった。

ここは、民宿ではなく地の果ての囚人小屋のようだった。
風呂は、ドラムカン風呂だったが、友人の吉澤氏も私も入浴しなかった。
この夜、木を荒削りした板の上で毛布一枚で寝たが、眠れなかった。

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