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2019年11月30日 (土)

ベネズエラ国の首都カラカスで、南米解放の父ボリーバル記念館へ行く

 

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*上下段の写真は、危険地帯、ベネズエラの首都カラカスの盛り場です。
多くの露店商が、道路の両脇や真ん中に、店を連ねていました。
写真撮影を目立たない場所から、撮影しました。
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カラカス(Caracas)は、ベネズエラ・ボリバル共和国の首都である。
ベネズエラの北部、カリブ海から山を1つ越えた盆地にある。
2001年現在の人口は、276万2759人。

通常は首都地区リベルタドル市と、ミランダ州のチャカオ市、スクレ市、バルタ市、
エルアティジョ市をあわせて言うが、
リベルタドル市のみを指してカラカス市と称する場合がある

カラカスの都市圏にあるリベルタドル市に、
ベネズエラ中央大学のキャンパスを中心にした大学都市という地区がある。
現代建築と彫刻が調和しているとされ、2000年に世界遺産に登録された。

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カラカスの治安(日本外務省発表):
カラカス首都区のリベルタドール(カラカス)市及びスクレ市
 
 =「渡航の是非を検討して下さい。」=

 (イ)カラカス首都区のセントロ地区では、近年、露天商が急激に増加して
   います。一見華やかに見えるこれら露天商街では、強盗、スリ等の被害
   が多発しており危険です。また、露天商とこれを撤去しようとする警察
   或いは国家警備軍の間で時折、衝突が発生しています。露天商らの投石
   やゴミの山に火を付ける行為に対し、治安当局側は催涙ガスやプラス
   チック弾を発射して対抗するため、これが発生した場合は、一時的に非
   常に危険な状況となります。

 (ロ)また、同地区には美術館、博物館等の観光名所が多々ありますが、現
   地をよく知る者の案内等なく、一見して観光客のような格好で観光する
   ことは犯罪者の格好のターゲットとなり危険です。

 (ハ)一般治安については、治安当局の統計によれば、2004年の殺人事件に
   よる死者は全国で9,719人(人口10万人あたりの発生件数は日本の33.3
   倍)、カラカス首都区で1,871人(同東京の75.3倍)でしたが、そのう
   ちリベルタドール市では1,164人、スクレ市では481人と非常に高い発生
   率を示しています。強盗事件についても全国で60,889件(同日本の40.2
   倍)、カラカス首都区で11,209件(同東京の76.3倍)で、そのうちリベ
   ルタドール市では3,214件、スクレ市では696件と、殺人事件同様、非常
   に高い発生率を示しています。

 (ニ)これら凶悪犯罪は、時間、場所、対象を問わず、その約90%が拳銃等
   の銃器を使用した犯行で、在留邦人や日本人観光客も拳銃を使用した強
   盗、自動車強盗等の被害に遭っています。

 (ホ)同地区では、ひったくり、置き引き、スリ等の犯罪も依然として高水
   準で推移しています。

 (ヘ)これら犯罪の約60%は公道上で発生しており、犯罪多発時間帯は従来
   平日の午後8時から午前0時までの間でしたが、最近では人が街頭に多く
   出る時間帯(通勤時間帯、昼食時間帯等)に多く発生するようになって
   います。

 (ト)つきましては、カラカス首都区のリベルタドール(カラカス)市及び
   スクレ市への渡航を検討されている方は、上記情勢を踏まえ、渡航の是
   非を含めた検討を真剣に行い、渡航される場合は、各種犯罪に巻き込ま
   れることのないよう十分な安全対策を講じることをおすすめします。

 

 

 

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**上下段の写真は、英雄ボリーバルの生家の内部です。立派な内部でした。
彼が生まれ育ったままの、コロニアル時代の姿のまま、保存されていました。

南米解放の父・ボリーバルが裕福な名門の生まれであることが、理解できました。
いまは、ボリーバル博物館として公開されていました。
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ベネズエラ独立運動
1806年にベネズエラ出身の元スペイン軍軍人だったフランシスコ・デ・ミランダ将軍が
ベネズエラ解放のための戦争を始めると、ボリーバルはこれに興味を抱き、
1807年にベネズエラに帰国した。

その後1808年にナポレオンがスペインに侵入して兄のジョゼフ・ボナパルトを
スペイン王ホセ1世として擁立した際、ボリバルは反王政派に加わった。
1810年4月19日、カラカスは植民地の自治を実行するための議会を設置。
ボリーバルはイギリスに外交のため派遣された。
イギリスでの活動目的は、スペイン植民地独立運動の説明と万が一の場合の武器などの
支援を受けられるように働きかけることであった。
資産以外に何の後ろ盾もなかったボリーバルのイングランド説得は
不成功に終わったが、ボリーバルはイギリスの政治制度から多くを学び、
後年世界で最も優れた政治体制は君主制を除いてイギリスのものだと語っている。

ボリーバルは1811年にベネズエラに帰国、3月に開かれた制憲会議で演説を行った。
1811年7月に、制憲会議がベネズエラの独立を宣言。
ボリーバルはベネズエラ国軍に入隊した。
ボリーバルはプエルト・カベロの要塞の守備をしていたが、
将校の裏切りにより要塞がスペイン軍の手に渡ってしまった。
さらに同年起こったカラカス大地震による被害は大きく、カラカスは再びスペイン軍に
占領されてしまう。これを重く見た政権のリーダーであったミランダ将軍はスペインと
休戦(事実上の降伏)したが、ボリーバルは徹底抗戦を誓って裏切り者のミランダを
スペイン軍に引渡し、ヌエバ・グラナダ連合州が支配していた現コロンビアの
カリブ海沿岸の都市カルタヘナに向った。(以下省略)

 

 

 

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*写真は、南米解放の父、ボリーバルの銅像です。
ボリーバル博物館のメイン・ルームに飾ってありました。

ベネズエラのチャベス大統領は、
国名を「ベネズエラ・ボリーバル共和国」と改名しました。

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ボリーバルの幼少期
ボリーバルは、現在のベネズエラ、カラカスのクリオーリョの名家に生まれた。
幼くして両親を亡くしたが、アメリカ大陸有数の資産家ボリバル家の
男子としてさまざまな家庭教師を付けられた。
このときの教師の1人シモン・ロドリゲスの考えがボリバルに大きな影響を与えている。
さらに教育を受けるため、16歳のとき1799年にスペインで任官していたおじを
頼ってヨーロッパに渡った。

南米の自然学者だったドイツ人のアレクサンダー・フンボルトに
南米独立にかける思いを語って一笑に付されるなどの屈辱的な経験もあったが、
遊学中にスペインでマリア と知り合うと、1802年に現地で結婚した。
そして、妻を連れてベネスエラに帰国した。
しかし翌1803年、熱帯の気候に耐えられなかったマリアは黄熱病で、
その生涯を閉じ、以降ボリーバルは深い喪失感を抱いて生涯再婚することはなかった。
1804年に傷心のままヨーロッパに戻り、しばらくはナポレオンに仕えたが、
このころの、南アメリカでのスペインからの独立の機運を機に、
祖国ベネズエラの独立を志ざすようになったといわれている。

ボリーバルは、踊りが上手く、非常に情熱的で、理想主義者であったといわれている。
また文筆の才能にも優れていた。
特に若い頃にモンテスキューやルソーの思想に触れ、ナポレオンの戴冠式に出席した
ことが、後年に大きな影響を与えたといわれる。
生涯を共和主義者として過ごし、君主制の導入を断固として拒否したのは
ナポレオンに失望したからであったようである。

ボリーバルの人物像
彼の名は、現在でも南アメリカ各地に大きな影響を与えている。
彼の名前が、いまや、ボリビアの国名の由来にもなり、ベネズエラには
ボリーバルの名の付いた都市(シウダ・ボリーバル)がある。
またカラカス最寄りのマイケティア国際空港はシモン・ボリーバルの名を合わせ持つ。
多くの街角には解放者ボリーバルの銅像が立ち並び、ベネズエラの地図作成の役所は
「ベネズエラ地理院シモン・ボリーバル」を正式名称とする。
カラカスのボリーバル広場と、ボゴタのボリーバル広場は、
それぞれベネズエラとコロンビアの首都の中心広場(プラサ・マジョール)である。
その他各国の州、都市、街区、街路、大学など、ボリーバルの名を冠するものは
夥しい。
ベネズエラの通貨単位はボリーバルで、紙幣の肖像画も多くは
ボリーバルのものとなっている。
1999年にベネズエラの大統領に就任したウーゴ・チャベスは、
ボリーバル革命を唱えて国名に「ボリーバル」を挿入し、ベネズエラの正式国名は
「ベネズエラ・ボリーバル共和国」となった。

 

 

 

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*上段の写真は、南米解放の父、ボリーバルの生家です。
いまは、ボリーバル博物館になっております。
警備は、ベネズエラ陸軍の兵士が守護していました。

*下段の写真は、ボリーバル博物館のスペイン系受付嬢です。
スペイン語で、優しく親切に案内してくれました。
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英雄シモン・ボリーバルについては、高校時代に、その人を知っていました。
私の生涯において、ボリーバルを生み育てたベネズエラを訪ねることは、
私の大きな夢の一つでした。
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シモン・ボリーバル(1783年7月24日 - 1830年12月17日)は、
南米大陸のアンデス地方5ヵ国をスペインから独立に導き、
統一したコロンビア共和国を
打ちたてようとした革命家、軍人、政治家、思想家である。
ベネズエラのカラカスに、アメリカ大陸屈指の名家の男子として生まれたが、
早いうちに妻を亡くしたことが直接、間接のきっかけとなって
ボリーバルはその後の生涯をラテンアメリカの解放と統一に捧げた。
このため、主に南米では「解放者」 (El Libertador) とも呼ばれる。

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