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2019年11月30日 (土)

ペルー国のクスコに、インカ帝国の遺跡を見る

 

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*写真は、12角の石です。


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「12角の石」は、カミソリの刃1枚すら通さない」という評判で、
多くの人に知られているインカ帝国時代の石材建築です。
これらの石は、クスコから10数キロから離れたところから
運ばれてきたものです。

石組みは、ピッタリと寸分の隙間もなく積み上げられていました。
クスコの町は、このような石壁で囲まれた路地が多くありました。

精緻に切り出された四角形の石は、微妙にズレながら、きれいなアミダ状の
模様を造り上げ、スペインのコロニアル建築を支えています。

この12角の石の意味は、様々な憶測があります。
一説には、ここにインカ・ロカの宮殿が建っていたことから、
王の一族(12人の家族)を象徴しているのだという。

 

 

 

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*上段の写真は、クスコの飛行場から、クスコの町を撮影したものです。

*下段の写真は、クスコの丘の中腹から、クスコの街並みを撮影しました。

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クスコは、アンデス山脈中の標高3600mにところにあります。
現在の人口はおよそ30万人と言われています。

クスコとは、「へそ」を意味し、インカ帝国の文化の中心でした。
現在でもペルーで有数の都市の一つです。

16世紀(1532年)に、スペインの征服者フランシスコ・ピサロによって
インカ帝国が終わりを告げた後、スペイン植民者がクスコを侵略しました。

1983年、世界遺産(文化遺産)に登録されました。

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私の日記:1999年11月29日、月曜日
午前7時半に、首都リマのホテルを出た。タクシーで国際空港へ向かった。
空港では、行列に並ぶことなく、空港職員が、行列に並ぶことなく、
チェックインの手続きから搭乗口まで案内をしてくれた。

アエロ・コンチネンタル航空機で、古都クスコヘ飛んだ。
クスコの町は、標高3360mの高地だったが、身体に異常を感じなかった。
空港から見渡すかぎり、クスコの町は、赤茶けた土色の町だった。
空港からは10人乗りぐらいの小型バスに乗ったが、20人以上が
ぎゅうぎゅうとすし詰めに積み込まれた。
クスコの丘の中腹にあるペンション花田に宿を決めた。1
泊料金は、朝食付き6ドル=約720円だった。
宿に着くや否や、「12角の石」を見るためにセントロへ行った。

 

 

 

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*写真は、リマのセントロにあるデサンパラドス駅周辺の風景です。

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ペルーの労働者の動き

――2008年2月 講演録

●ペルー統一労働組合連盟(CUT-PERU)

アルフォンソ ヘルナン ガンボア プリセニョ
組合員兼CUT-PERU青年・高齢者アドバイザー

 ペルー労働運動には4つのナショナルセンターがあり、CUT-PERU(ペルー労働組合連盟)はその主要な1つの組織である。労働運動の今日的な課題をあげると、

[1]人口の80%近くを占める自営の労働者全員をナショナルセンターに加盟させるべく努力している。彼らに社会保障を始めとするあらゆる権利を認めさせ、ルール化すること。

[2]労働一般法および公職雇用法の承認および施行を通じ、民間企業および行政の労働者の労働権を回復する。

[3]労働者の企業との直接契約の復活を要求し、雇用の安定化を図る。

[4]国際的な貿易条約の基本権利に関する労働条項や企業の社会的責任の矛盾の解決に関する項目に参画する。

[5]ペルーの労働運動と国際的な労働運動との連携を強化し、国際的な連帯行動や、直接的な労働運動展開のための協力行動を強化する。

  次に多国籍企業における労働問題については、

[1]多国籍企業における雇用関係は、派遣、請負などの雇用などが中心なため、きわめて不安定な雇用状況におかれている。

[2]労働組合の組織化は、極端な制限に特徴づけられ、組織化に取り組む労働者の解雇事件も多い。一方、産業別の集団交渉への体系的な抵抗があり、何年も交渉が続きながら解決されていない事例がある。

[3]鉱業関係など、労使紛争が多発している。これは、労働関係の不安定さの露呈と、90年代から尾を引いている実質的な賃金凍結状態に端を発している。

 

 

 

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*写真は、首都リマのセントロにあるサン・フランシスコ教会前で
ミサのために、多くのカトリック信者が集まっていました。

(1999年11月28日、日曜日に撮影)

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ペルーの宗教:
ローマ・カトリックが89%程であるが、
近年カトリックの数は減少しつつある。

その他の宗教としては福音派プロテスタントが 6.7%など。

スペイン人による征服以来ペルーに住む人々はキリスト教を受容していったが、
それでも先住民の伝統宗教と独自の融合、背反を重ねて現在に至っている。

 

 

 

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*写真は、ペルー国の国会議事堂とボリーバル広場です。

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次に記事は、中南米新聞の編集長・石河照大さんが、2000年11月に書かれた記事です。


正直、勤勉、テクノロジー」をスローガンにして、1990年に日系人として初の大統領に就任したペルーのアルベルト・フジモリ大統領は、東京滞在中の2000年11月20日未明(ペルー時間:19日)に辞任表明しましたが、与野党の勢力地図が逆転したペルー議会は11月21日、フジモリ大統領の辞表の受理を認めず、「道徳的欠如」を理由として事実上、罷免しました。フジモリ第3期政権発足(7月28日)から4か月足らずのことでした。

フジモリ政権崩壊へのカウントダウンは、フジモリ大統領の連続3選出馬の過程で始まったものですが、辞任への直接的な引き金となったのは、大統領の元腹心で”影の実力者”といわれたウダジミロ・モンテシノス国家情報局・顧問(=当時)が議会多数派工作のために野党議員を買収している様子を隠し撮りしたビデオが公開(9月14日)されたことでした。

3期10年4か月に及んだフジモリ政権は、軍部や国家情報局(SIN)を背景として力によるゲリラ掃討作戦で治安を回復し、また、年7000%を超えるハイパーインフレを終息させて経済安定を図り、そして、国営企業の民営化政策と市場開放政策による新自由経済政策(ネオリベラリズム政策)で高度経済成長を達成してマクロ経済面では大きな成果を上げたことは周知の通りです。

しかし他方、フジモリ政権の独裁的な強権体質への批判は高く、また、近年の世界的な経済危機の影響などもあって貧困の拡大や失業率の増加などで国民生活は非常に厳しいのも事実でした。また、フジモリ大統領の連続3選について、ペルー日系社会のフジモリ批判は日本では想像できないほど高いものでした。

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