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2019年11月30日 (土)

ペルー国リマ市の大統領府を見る

 




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*写真は、大統領府の裏側の周辺です。
戦車が銃口を構えて、警備していました。

~~~~ペルーの治安(日本国外務省発表)~~~~~

ペルー:大規模抗議行動に関する注意喚起 (2008/07/18)

1.7月9日、ペルーにおいては、政府の経済政策等に反対して全国労働者総
連盟(CGTP)の呼び掛けによる全国ストが実施されました。ペルー政府は
軍を治安対策のために投入しましたが、マドレ・デ・ディオス州において、州
庁舎が焼き打ちに遭ったほか、ラ・リベルタッド州においては、出産のため妊
婦が救急車で病院に運ばれる途中にデモによる路上の置き石で立ち往生し、同
女性が出産後に病院で死亡するという痛ましい事故が発生しました。その他の
州では治安上の大きな問題はありませんでしたが、7月28日の独立記念日に
向けて、今後もデモやストの動きには注意が必要です。

2.マドレ・デ・ディオス州の状況を受けてペルー政府は、同州の公共機関に
対して破壊行為が行われ、迅速な復旧が必要なことを理由に、13日、同州に
非常事態宣言を発令しました。(期間は7月12日から9月9日の60日間。


3.つきましては、ペルーに渡航・滞在される方は、在ペルー日本国大使館
(在リマ総領事館)やテレビ・ラジオ等から最新の治安関連情報の入手に努める
とともに、可能な限り危険な地域の立ち入りは避け、やむなく立ち入りする際
は安全の確保に細心の注意を払うように努めてください。

4.また、ペルーにおいては、別途「危険情報」が発出されていますので、同
内容についても御留意ください。

(問い合わせ先)
○外務省海外安全相談センター
  住所:東京都千代田区霞が関2-2-1
  電話:(代表)03-3580-3311(内線)2902
 ○外務省 海外安全ホームページ: http://www.anzen.mofa.go.jp/
http://www.anzen.mofa.go.jp/i/(携帯
版)
 ○在ペルー日本国大使館(在リマ日本国総領事館)
  住所:Avenida San Felipe 356, Jesus Maria, Lima, Peru (Apartado N
o. 3708)
  電話:(51-1) 218-1130
  FAX :(51-1) 463-0302

 

 

 






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*写真は、リマのアルマス広場と大統領府の建物です。

1535年、ペルーの都をクスコからリマへ移すと決めた
フランシスコ・ピサロは、スペインのイベリア様式にのっとり、
アルマス広場を中心に町を築いていきました。
現在もアルマス広場は旧市街の中心地です。

広場を囲むように古い建物が残り、それを広場の片隅から、
ピサロの像が見詰めていました。
大統領府の周辺は、警備は厳重でした。

この大統領府の主は、フジモリさんでした。
(1999年11月28日、日曜日)



 

 

 






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*写真は、首都リマのセントロの、サン・マルティン広場です。

中心には、ペルー独立運動に大きな業績を残したサン・マルティン像が
立っていました。ここは市民の憩いの場といった雰囲気です。

かっては、観光案内所、旅行会社が広場周辺に集中し、旅行者にとって
欠かせない場所だったらしいが、現在はほとんどサン・イシドロ地区と
ミラフローレス地区に引っ越してしまい、広場周辺は閑散としていました。

(1999年11月28日、日曜日に撮影)

~~~~~~~
1999年11月に、ペルー国を訪問した時の大統領は、フジモリさんでした。
ペルーでは、フジモリ大統領をはじめ、ペルー政財界に多くの人材を輩出し、
その地位を不動のものとしているペルー日系社会ですが、
1999年は、移住100周年でした。

その移民の歴史は決して平坦なものでは無く、初期の貧困の歴史、
そして戦争(第二次世界大戦)に左右された苦難の歴史がありました。

100年前、まだ日本は、明治時代、ハワイ、米国等の移住の後、
南米移住の先駆けとして、ブラジルよりも早い時期にペルー移住が始まりました。
当初の移住は、他の国でも同様ですが、永住を目的にしたものよりも
主に出稼ぎを目的としていて、故郷に錦を飾る事を夢見て
日本を後にするというものでした。
当初の移民は非常に苦労したようで、雨の少ない不毛土地で生活習慣が違う中での
先人の苦労は現代の我々には想像不可能だと思います。

戦前、苦労しながらも真面目な働き振りで財を成した日系人達は
第二次世界大戦で敵国民となり、財産を没収、米国の収容所に送られると
いうような悲惨な体験を経て来ています。

現在では、ペルー日系社会は成熟した社会となり、ペルー社会の各方面で活躍、
なにしろ、フジモリ大統領を生んだほどなのですから、たいしたものです。



 

 

 






*写真は、首都リマのセントロの、サン・マルティン広場です。

中心には、ペルー独立運動に大きな業績を残したサン・マルティン像が
立っていました。ここは市民の憩いの場といった雰囲気です。

かっては、観光案内所、旅行会社が広場周辺に集中し、旅行者にとって
欠かせない場所だったらしいが、現在はほとんどサン・イシドロ地区と
ミラフローレス地区に引っ越してしまい、広場周辺は閑散としていました。

(1999年11月28日、日曜日に撮影)

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1999年11月に、ペルー国を訪問した時の大統領は、フジモリさんでした。
ペルーでは、フジモリ大統領をはじめ、ペルー政財界に多くの人材を輩出し、
その地位を不動のものとしているペルー日系社会ですが、
1999年は、移住100周年でした。

その移民の歴史は決して平坦なものでは無く、初期の貧困の歴史、
そして戦争(第二次世界大戦)に左右された苦難の歴史がありました。

100年前、まだ日本は、明治時代、ハワイ、米国等の移住の後、
南米移住の先駆けとして、ブラジルよりも早い時期にペルー移住が始まりました。
当初の移住は、他の国でも同様ですが、永住を目的にしたものよりも
主に出稼ぎを目的としていて、故郷に錦を飾る事を夢見て
日本を後にするというものでした。
当初の移民は非常に苦労したようで、雨の少ない不毛土地で生活習慣が違う中での
先人の苦労は現代の我々には想像不可能だと思います。

戦前、苦労しながらも真面目な働き振りで財を成した日系人達は
第二次世界大戦で敵国民となり、財産を没収、米国の収容所に送られると
いうような悲惨な体験を経て来ています。

現在では、ペルー日系社会は成熟した社会となり、ペルー社会の各方面で活躍、
なにしろ、フジモリ大統領を生んだほどなのですから、たいしたものです。



 

 

 






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*リマの新市街にある娯楽施設です。カジノ=バクチ場です。

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ペルー移民:
ペルーに最初の日本人が上陸したのは、1898年でした。
以来、3~5万人の日本人が、ペルーにやってきたものの、
多くは過労や病気で倒れて、二度と日本の土を踏むことは、
無かったという。

彼らが残した子供達は2世としてペルーに根付きました。
生活が次第に安定して来ると、勤勉で努力家の日本人は、
ペルー社会で頭角を現してきました。
1990年、日系2世、アルベルト・フジモリさんが、
ペルー大統領になりました。
~~~~~~
ペルーの日系人口は、8万人といわれてきましたが、
この調査は数十年前に行なわれたものであります。
しかも当時、ペルー国外に住む日系ペルー人は、
調査対象とはならなかったうえ、
日本人の血の割合が低い混血の人たちを
あまりカウントしなかったようです。
これらの事実と、その後の自然増を勘案すれば、
現在の日系人口は数十万に達している可能性があるという。
ペルー人口の3%を占めるという説もあるが、
いずれも実数調査がなされていないという。




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