旅行・地域

2019年11月30日 (土)

チリ国の砂漠の町・アリカへ行く

  


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*上段の写真は、イキケのプラット広場にある時計台です。
時計台は、1877年に造られて、町のシンボルです。
かって、イキケが繁栄を極めた名残りです。

*下段の写真は、イキケのプラット広場で寛ぐアベックです。
私は、スペイン語の勉強も兼ねて、二人と楽しい会話を交換しました。
プラット広場の周辺には、市立劇場、銀行など荘厳な建物が並んでいました。
プラット広場は、開放感のある広場で、市民の憩いの広場です。

 

 

 






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*上段の写真は、アリカの海水浴場=ラ・リセラ海岸です。
チリ国の海水は、南極から流れて来る冷たい海流のために、
海水温度は低く、ビーチは沢山にあっても、泳げるのはアリカ海岸だけです。
(1999年12月6日撮影)

*下段の写真は、アリカの町から、イキケの町へ行く乗り合いバスの中から、
砂漠を走る自動車道を撮影しました。車道の両側は、延々と続く砂漠でした。
アリカから、イキケまで、片道5時間、往復10時間の旅でした。
この砂漠の旅をするのが、イキケへ行く目的の一つでした。



 

 

 






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*上段の写真は、アリカの町を囲む砂漠です。

*下段の写真は、地上絵のある丘です。
丘の斜面に、動物の地上絵が描いてあります。
手前は、アサバ村の植物園です。



 

 

 






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*上段の写真は、アリカの丘陵の頂上に立つチリ国旗です。
眼下に、アリカの市街を見ることが出来ました。
アリカは砂漠に囲まれた町でした。
アリカは、かって、ボリビア国のポトシ鉱山の銀鉱石をヨーロッパへ運ぶ港でした。
ペルーの国境に接して、交通の要所でした。

*下段の写真は、アリカの市街です。白い壁の家が並んでいます。

私の日記:1999年12月6日、月曜日
朝、ホテルから、タクシーに乗って、ラ・パス郊外のエル・アルト空港へ行った。
ラン・チリ航空機に乗って、チリ国アリカへ飛んだ。
アリカは砂漠の町だった。国境の町だった。
ホテルは、ディエゴ・デ・アルマグロに決めた。
一泊料金は、25ドル=約3000だった。
まず、ホテルで、観光タクシーを20ドル=約2400円で雇った。
運転手は、英語は全く話せなかった。スペイン語で、お互いの意思の疎通を図った。
サン・マルコス教会、アリカ丘陵、ラ・リセラ海岸、アサバ渓谷、地上絵などを
見物した。



 

 

 






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*上段の写真は、ファッショナブルなお店がある坂道ですが、
ボリビア国政府の命令により、国政選挙日のために、どのお店も休業中でした。

*下段の写真は、国政選挙日に、暴動を警戒する兵隊さんです。

ボリビア国の首都ラパスへ行く

 

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*上段の写真では、ラ・パスの町が、坂の多い町だということが分かります。

手前の建物は、町の中心街の、比較的立派な建物ですが、
遠方に見える斜面の住宅街には、貧しい人々が暮しています。
質素な掘っ立て小屋の住宅が並んでいました。

*下段の写真は、カテドラル=サン・フランシスコ教会です。
教会の右隣りは、民芸品広場です。
山の斜面に、貧しい人々の掘っ立て小屋の住宅が並んでいます。

 

 

 

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*上段の写真は、コロニアル・ムード漂うムリリョ広場周辺です。
スペイン統治下時代の建物が、そのまま残っていました。
*下段の写真は、旧市街の高級住宅地で、ファッショナブルな家がありました。

 

 

 

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*上段の写真は、ムリリョ広場にあるボリビアの国会議事堂です。
*下段の写真は、首都ラ・パスのメイン・ストリートの
 Ave.16 de Julio ~ Ave.Villazonです。

私の日記:1999年12月5日、日曜日
外は快晴だった。今日は国政選挙の投票日のために、主要な道路には、
自動車は走っていなかった。アルコール飲料は、発売禁止だった。
公共施設は、どこも休業だった。往来は閑散としていた。

 

 

 

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**上下の写真は、ラ・パスのフォルクローレ・ミュージクの本場、
レストラン、ペーニャのライブハウス「ロス・クドス」のショウと舞台です。
(1999年12月4日、土曜日に撮影)

ラ・パスは、世界的に有名なフォルクローレの本場の町です。
ホテルの従業員から、ラ・パスの夜の一人歩きは危険だと言われたが、
折角、フォルクローレの本場に来たからには、ペーニャへ行って、
ライブショウを見たかった。

ペーニャに入場したが、観客は7名だけだった。少ない観客なので、
フォルクローレの音楽も踊りも、なんとなく盛り上がりに欠けた舞台だった。
翌日は、国会議員選挙の投票日のために、11時に閉店の処置がとられた。

尚、ペーニャとは、食事を食べながらライブ・ショウを見るところです。

 

 

 

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*写真は、ペルー国のプーノから、陸路で、ボリビア国の首都・ラパスへ
行く途中で、国境の町、コパカバーナを過ぎて、ティキーナ湖峡を渡ったところに
ある町です。

私の日記:1999年12月4日、土曜日
プーノの町のホテルで、朝、起きたときに、軽い高山病に罹っているのか、
頭がすっきりしなかった。午前8時に、ボリビア国へ行きのバスに乗った。
ペルー国とボリビア国の国境の町、ユングーノに着いた。出入国の手続きは
簡単だった。ボリビア国へ入ってから、道路は悪路だった。
ボリビアの首都ラ・パスには、午後4時頃に到着した。

ボリビアの首都ラ・パスは、標高3650m、世界最高所にある首都として有名です。
人口は約110万人ですが、半数が先住民インディヘナが占めています。
ある旅行者が、ラ・パスについて次のように述べています。

ラ・パスの難点は、偽警官が多いこと。いたるところに出没するが、特に多いのが
バスターミナル周辺とペルー国境からのバスが着くセメンテリオ(墓地)周辺。
手口は3種類。まず、観光客役が道を訪ねてきて標的の足を止め、そこに警察官と
名乗る男がやってきて、麻薬捜査などと称して荷物検査をするというもの。

2つ目はこの偽観光客抜きで私服警官が一人で職務質問するというもの。
3つ目はタクシーに警官が乗りこんでくるというもの。現金を持っていれば、
もちろん抜きとる魂胆だ。そもそもボリビアの警察官は制服を着ているし、
観光客に英語で話しかけてくるようなことはない。ラ・パスに17日いて4回も
偽警官に遭った。ペルーのリマやクスコで頻発しているタクシー強盗も
ぼちぼちラ・パスで起きているようだ。

 

ペルー国のチチカカ湖のウロス島へ上陸する

25(金) 午前 7:49

 




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**上・下の写真は、チチカカ湖のウロス島で、
先住民の生活などを見物する観光客たちです。

 

 

 






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**上・下の写真は、チチカカ湖のウロス島で生活する先住民とその住宅です。
浮き島では、観光客相手に、先住民が民芸品などを売っていました。

南米のボリビア国とペルー国の国境線沿いにそびえる
アンデス山脈の連なりであるラパス山脈の頂上付近に
チチカカ湖という世界的に有名な湖がありました。

このチチカカ湖は、長さ222km、幅112km、面積8200平方kmという。
チチカカ湖は、標高3810mという富士山より高い山の頂上付近にあります。

湖も深さは、ところによっては深度300mもあるという。
300mといえば現代の潜水艦でも簡単に潜れる深さではないという。



 

 

 






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*上段の写真は、ウロス島のトトロの草の上で、観光中に休んでいる小生です。
トトロで造った小船やトトロの屋根・壁が見えます。
*下段の写真は、ウロス島では、刈ったばかりの青いトトロを乾燥させています。

チチカカ湖(ティティカカ湖、Lago Titicaca)は、
ペルー南部とボリビア西部にまたがる淡水湖です。
標高は3810mほどです。
湖面の60%がペルー領で、40%がボリビア領となっています。「
(動力エンジンを持つ)汽船などが航行可能な湖として世界最高所」
と言われています。
数少ない古代湖の一つとしても知られています。

湖中には、チチカカ島やルーナ島、タキーレ島、アマンタニ島、
太陽の島、月の島、スリキ島など41の大小の島々があります。
チチカカ湖の島々やその周辺には、ケチュア族やアイマラ族、ウル族といった、
先住民系の民族が居住しており、沿岸の都市部での就労の他、
島では農耕や漁業、観光などに携わって生計をたてて暮らしています。



 

 

 






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*上段の写真は、ティティカカ湖のウロス島の住民と住宅です。
*下段の写真は、トトロで造った住宅屋根と、島に生えているトトロです。

アンデス山中にあるティティカカ湖の湖畔に、プーノという町があります。
この町は、「ティティカカ湖」への観光拠点として、
またボリビアへの通過点として、多くの旅行者が訪れています。
私も、ボリビアへ行く途中に、プーノへ訪れました。
プーノの町では、民族衣装のインディヘナが多く見受けられます。
南米らしいのどかな町でもありますが、美しい町ではありませんでした。
プーノは、標高 3,850m。富士山頂よりも高いところです。
ティティカカ湖も、汽船の航行する湖としては
世界最高所にある湖となっています。



 

 

 






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*上段の写真は、ティティカカ湖に生えているトトラという植物です。
*下段の写真は、ティティカカ湖の周遊をトトラで造った小船で
行われている光景です。

私の日記:1999年12月3日、金曜日
プーノの町は、汚い街だった。喧騒の街だった。
ティティカカ湖へ見物に出かけた。
ティティカカ湖は、アンデス山脈のほぼ中央にあり、
海抜3890mに位置していた。
この湖に浮かぶウロス島へ行った。
ウロス島は、トトラと呼ばれる植物を積み重ねた浮島だった。
ウロス島では、トトラで造った小船に乗って、周辺を見物した。
ウロス島の住民達が民芸品を売っていた。

午後、プーノの市街を散策した。
市内の最高級レストラン「ドン・ピエロ」で、夕食をとった。
ウエーター推薦の高い料理を食べたが、とても不味かった。
半分以上を食べ残した。

ペルー国のクスコから峠を越えて、チチカカ湖の町へ

  

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*写真は、プーノの町から クスコの町へ向けて走っている鉄道列車です。

バスの中から、ガラス窓越に撮影しました。
4000m級の高所付近です。

なお、私が向かうのは、プーノの町ですから
鉄道列車は、反対方向に、向かっています。

 

 

 

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***上中下の写真は、クスコからプーノへ行く途中、

4335mの高所で休憩中に見た周辺の風景です。
アンデスの山々を仰ぎ見ました。

近くを高山列車のレールが敷設してありました。
世界で最も高い鉄道路線だと言っていました。

 

 

 

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*上段の写真は、クスコからプーノへ行く途中で立寄った
スペイン統治時代の18世紀の遺物です。

なお、プーノの町は、ティティカカ湖が在る町です。

*中・下段の写真は、クスコからプーノへの道中で、
乗客とバスの運転手と車掌が昼食を食べる風景です。

写真の左に見える二人は、観光客相手に絨毯を編んでいます。
移動客のために、観光バス会社が演出したもの。

 

 

 

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**上・下の写真は、クスコの町から、プーノの町へ行く途中で
立寄った18世紀のスペイン統治時代のキリスト教会です。

私の日記:1999年12月2日(木曜日)
午前8時ころ、クスコの町から、ティティカカ湖畔のプーノ市へ向かった。
移動バスは、あえてトイレット完備のデラックスのバスを選んだ。
乗客は、フランス人夫妻と私の3人だけだった。
バスの乗車賃には、走行ルート上の観光地ガイドと昼食代を含んでいた。
クスコからプーノへの道と平行に、高山列車が走っていた。
途中、標高4335mの高所に留まった。
そこは、世界一高い鉄道路線の峠だと言っていた。
プーノの市街に午後5時頃に到着した。
宿は、インターナショナル・ホテルに決めた。
一泊料金は14ドル=約1680円だった。

 

 

 

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*写真は、クスコ郊外の農村風景です。

クスコ郊外の農村を観光バスで回り、
民芸店などに立寄りました。

子供の傍らの動物は リャマ という。
リャマとアルパカは、アンデスを代表する動物です。
古代から家畜としてインカ人が飼っていた動物です。
リャマは、アルパカよりも一回り大きいです。

ペルー国のクスコとマチュピチュを観光旅行する

  


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*写真は、クスコ近郊のサクサイワマンの要塞跡です。

此処は、クスコの東を守る堅固な要塞跡でした。
スペイン人に反逆を企てたマンコ・インカは、サクサイワマンの
要塞に2万人の兵士とともに陣どった。それは、1536年5月でした。

しかし、夜は戦わないインカ兵は、そのスキを突かれ、作戦は失敗に
終わり、20mあった城壁もその上から聳えていた円塔も大部分壊された。

遺蹟は、巨石を3層に積み上げて造られていた。石組みの技術は、
インカのそれらしくぴったりとかみ合い、特に内側は高さ5m、360トン
もある巨石が使われていたところもあった

 

 

 






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*写真は、クスコの住宅街です。
印象として、クスコの町には、石組みの壁を持つ家は、
むしろ少なくて、写真のような土壁を持つ家が多かった。

私の日記:1999年12月1日(水曜日)
朝食時に、ペンション花田に宿泊している日本人バックパッカーの若者達と
語り合った。若者達は、世界の後進国を放浪していた。
インド、イラン、メキシコなどを放浪した冒険物語を聞いた。

午後は、旅行会社の市内観光ツアーに参加した。
市内のアルマス広場、カテドラル、サン・ブラス教会、サント・ドミンゴ教会等を
見学した。そして、近郊の旧蹟であるサクサイワマン、ケンコー、プカプカラ、
タンボマチャイなどを見学した。

この日、昼食と夕食は、クスコ市内のレストラン「金太郎」で食べた。
日本人女性がつくった心の籠もった和食料理だった。



 

 

 






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*上段の写真は、マチュピチュ遺蹟について説明する
ガイド嬢(中央のメガネをかけた青い上着の女性)と、
日本人観光団体の一団です。

*下段の写真は、偶然に出会った大学時代の友人(左)と
一緒に、記念写真を撮る。

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1999年11月30日、火曜日

マチュピチュの見物が終わった後が、恐怖の連続だった。

友人達の日本の団体観光客は、午後2時ごろに山を降りた。
彼ら大勢の日本人団体観光客は、マチュピチュ駅を午後3時発の列車で、
列車は、満員の乗客を乗せて、去って行った。

次に、午後4時発の列車も、満席の乗客を乗せてマチュピチュ駅を出て行った。

広くて薄暗い駅の構内には、私一人だった。誰一人、構内には旅客はいなかった。
二人いた筈の駅員も、どこかへ行ってしまった。辺りには、人間の姿はなかった。

午後5時が過ぎた。谷間にあるマチュピチュ駅に、暗い夜の帳が下りた。
電灯のつかない暗い駅舎では、私は不安と恐怖を感じた。
午後6時になっても、広く大きな駅舎には、私ひとりだった。

6時半発の乗車予約券を持っているのは私一人だった。
強盗が出没するという噂を耳にしていたので、私は恐怖に震えた。
6時30分発の列車は、遅れて6時55分に、駅のホームに来た。

駅員が、どこからかやって来て、改札口に現れた。
客車は、1両のみだった。
客車に乗ったものの、電灯が点いていない列車内には、
私以外に、誰ひとり乗客はいなかった。
発車間際に、5人の乗客が現れた。

列車の走行中も、客車内は暗闇だった。
電灯の点かない真っ暗闇の中で、約4時間を不安と恐怖に震えて過ごした。
列車は、午後11時ごろに、終着駅のクスコのサン・ペドロ駅に着いた。

終着駅サン・ペドロ駅から、タクシーに乗ったものの、
タクシー運転手は、私が目指す宿が見付からないと言って、
私を暗闇の道路に降ろして、去って行きました。

首絞め強盗が現れる噂の深夜の小道をトボトボ歩いて、
昨日の昼間歩いた記憶を頼りに、日本人経営の安宿に帰った。
幸いにも、今日の一日、無事だった。



 

 

 






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*上段の写真は、マチュピチュです。
*下段の写真は、日本人団体観光客です。

~~~~~~~出典: フリー百科事典『ウィキペディア~~~~~~

マチュ・ピチュ(Machu Picchu)は、現地語では「老いた峰」の意味で、
よく保存されたインカの遺跡である。
ペルーのウルバンバ谷 (Urubamba valley) に沿う高い山の尾根
(標高約6,750ft、2,057m)に位置し、山裾からはその存在を確認できない。

しばしば《インカの失われた都市》あるいは《空中の楼閣》と呼ばれる。

この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。
遺跡の面積は約13Km2で、石の建物の総数は約200戸が数えられる。
マチュ・ピチュに関する多くの謎が未だに解明されていない。

熱帯山岳樹林帯の中央にあり、植物は多様性に富んでいる。
行政上クスコと同じ地域に属している。
現在ペルー国内では10ヶ所あるユネスコの世界遺産のうちでは
最初にクスコと同時(1983年)に指定された。



 

 

 






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*上段の写真はマチュピチュです。
*下段の写真は、昨日、古都クスコで、
偶然に遭遇した大学時代の友人森分君(右)に会いました。

~~~~~~~NHKのマチュピチュの説明文~~~~~~~
南米・アンデス山脈を望む山の頂に忽然(こつぜん)と広がるマチュピチュ。
インカ帝国が築き上げたこの都市は標高2400メートルの断崖絶壁の上にあり、
麓からは全く見ることができないきわめて特殊な立地にあるため「驚異の空中都市」
といわれています。
16世紀にインカ帝国を征服したスペイン人さえも気付かず、
20世紀に入るまでその存在は世界に知られていませんでした。
1911年、アメリカ人歴史家・ハイラムビンガムによって世界に紹介された
マチュピチュは20世紀考古学界の最大の発見と賞されたものの、
これがいったいなんのための都市だったのか長年謎とされてきました。

インカ帝国誕生の地、インカ帝国最後の都、処女の館と諸説が飛び交っていたが
決め手を欠いていました。
インカは文字を持たなかったため、手がかりになる文献資料がないということも
影響しています。しかし、今回の取材では新たな仮説にたどり着きました。
ビンガムが持ち帰った400点以上の出土品と、174体の人骨、
スペイン人による古文書から、マチュピチュは、
15世紀の第9代インカ皇帝の築き上げた王直轄の都市であることがわかったのです。
さらに住居跡の調査から、貴族や技術者など身分の異なる500人以上の人々が
ここで暮らし、段々畑で農作業をしたり、金属加工を行なったりなどの生活が
繰り広げられていたことがわかりました。
その姿は現在、マチュピチュ付近の農村で暮らすアンデスの人々と重なっています。
またおびただしい数の石造建築物をいかにして作り出したか、
その材料調達方法や、建築方法も次第に明らかになりました。
車輪を持たなかったインカの人々が、円柱状の石を転がすことで運搬していたことも
確認されました。

ペルー国のマチュピチュとクスコのインカ文明を見聞する

  

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*写真は、空中都市といわれるマチュピチュです。

1999年11月30日、火曜日

朝、6時30分に、宿からタクシーに乗ってサン・ペドロ駅に行った。

マチュピチュへ行く日本人団体観光客の一団がいた。

列車は、曲がりくねったレールの上をガタゴトとゆっくり走った。

終着駅から、バスに乗り換えて、マチュピチュへ登った。

尖った絶壁の山々がそびえるウルバンバ渓谷の山間に、

標高2,280mの頂上に、マチュピチュがあった。

マチュピチュとは老いた峰を意味します。

山裾からはその存在を確認できないことから“空中都市”とも呼ばれるこの遺跡は、

スペイン人から逃れるために、あるいは復讐の作戦を練るために、

インカの人々が作った秘密都市だったともいわれている。

 マチュピチュの総面積は5平方km、その約半分の斜面には段々畑が広がり、

西の市街区は神殿や宮殿、居住区などに分かれ、周囲は城壁で固められている。

16世紀半ば、インカの人々は高度な文明が栄えたマチュピチュを残し、さらに奥地へと消えてしまう。

その後400年以上にわたって人の目に触れることなく、1911年にアメリカ人歴史学者ハイラム・ビンガムが

初めて見た時には、草に覆われた廃虚となっていた。マチュピチュにまつわる多くの謎は、

未だに解明されていない。

 

 

 

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*写真は、近畿ツーリストの団体観光旅行で来ていたバスです。
バスの扉のところに立つ女性は、旅行会社のガイド嬢です。
私は、一人旅でしたので、久しぶりに、
この団体観光客の一員である友人の森分君を始めとし、
日本人観光客に出会いました。

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クスコの治安は、首締め強盗などが多発し、
治安はあまり良いとは言えないようでした。
日本人だけでも数人の被害者の話を聞いています。

観光客で賑わう中心部を歩いているとそんなことが信じられないが、
人通りの少ない脇道、夜の一人歩きは避けました。
夜の移動には、ケチらずタクシーを使いました。

 

 

 

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*上段の写真は、大学時代の友人・森分君と偶然に、
「12角の石」の前で、出会いました。

約35年間、海外97カ国のを旅してきましたが、
こんな辺鄙な町で、大学時代の友人に会うなんて、
一生涯のうちで、一度だけでした。

*下段の写真は、遭遇=僥倖記念の写真です。
左端が森分君、中央が小生、右端が森分君の実姉です。

 

 

 

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**上・下段の写真は、クスコの町の路地です。
このような精緻を極めた石壁がいたるところで見られました。

 

 

 

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**上・下段の写真は、インカ帝国の遺蹟「12角の石」がある路地です。
この道は、クスコの町の中心にあるアルマス広場から近い場所にありました。

ペルー国のクスコに、インカ帝国の遺跡を見る

 

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*写真は、12角の石です。


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「12角の石」は、カミソリの刃1枚すら通さない」という評判で、
多くの人に知られているインカ帝国時代の石材建築です。
これらの石は、クスコから10数キロから離れたところから
運ばれてきたものです。

石組みは、ピッタリと寸分の隙間もなく積み上げられていました。
クスコの町は、このような石壁で囲まれた路地が多くありました。

精緻に切り出された四角形の石は、微妙にズレながら、きれいなアミダ状の
模様を造り上げ、スペインのコロニアル建築を支えています。

この12角の石の意味は、様々な憶測があります。
一説には、ここにインカ・ロカの宮殿が建っていたことから、
王の一族(12人の家族)を象徴しているのだという。

 

 

 

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*上段の写真は、クスコの飛行場から、クスコの町を撮影したものです。

*下段の写真は、クスコの丘の中腹から、クスコの街並みを撮影しました。

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クスコは、アンデス山脈中の標高3600mにところにあります。
現在の人口はおよそ30万人と言われています。

クスコとは、「へそ」を意味し、インカ帝国の文化の中心でした。
現在でもペルーで有数の都市の一つです。

16世紀(1532年)に、スペインの征服者フランシスコ・ピサロによって
インカ帝国が終わりを告げた後、スペイン植民者がクスコを侵略しました。

1983年、世界遺産(文化遺産)に登録されました。

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私の日記:1999年11月29日、月曜日
午前7時半に、首都リマのホテルを出た。タクシーで国際空港へ向かった。
空港では、行列に並ぶことなく、空港職員が、行列に並ぶことなく、
チェックインの手続きから搭乗口まで案内をしてくれた。

アエロ・コンチネンタル航空機で、古都クスコヘ飛んだ。
クスコの町は、標高3360mの高地だったが、身体に異常を感じなかった。
空港から見渡すかぎり、クスコの町は、赤茶けた土色の町だった。
空港からは10人乗りぐらいの小型バスに乗ったが、20人以上が
ぎゅうぎゅうとすし詰めに積み込まれた。
クスコの丘の中腹にあるペンション花田に宿を決めた。1
泊料金は、朝食付き6ドル=約720円だった。
宿に着くや否や、「12角の石」を見るためにセントロへ行った。

 

 

 

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*写真は、リマのセントロにあるデサンパラドス駅周辺の風景です。

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ペルーの労働者の動き

――2008年2月 講演録

●ペルー統一労働組合連盟(CUT-PERU)

アルフォンソ ヘルナン ガンボア プリセニョ
組合員兼CUT-PERU青年・高齢者アドバイザー

 ペルー労働運動には4つのナショナルセンターがあり、CUT-PERU(ペルー労働組合連盟)はその主要な1つの組織である。労働運動の今日的な課題をあげると、

[1]人口の80%近くを占める自営の労働者全員をナショナルセンターに加盟させるべく努力している。彼らに社会保障を始めとするあらゆる権利を認めさせ、ルール化すること。

[2]労働一般法および公職雇用法の承認および施行を通じ、民間企業および行政の労働者の労働権を回復する。

[3]労働者の企業との直接契約の復活を要求し、雇用の安定化を図る。

[4]国際的な貿易条約の基本権利に関する労働条項や企業の社会的責任の矛盾の解決に関する項目に参画する。

[5]ペルーの労働運動と国際的な労働運動との連携を強化し、国際的な連帯行動や、直接的な労働運動展開のための協力行動を強化する。

  次に多国籍企業における労働問題については、

[1]多国籍企業における雇用関係は、派遣、請負などの雇用などが中心なため、きわめて不安定な雇用状況におかれている。

[2]労働組合の組織化は、極端な制限に特徴づけられ、組織化に取り組む労働者の解雇事件も多い。一方、産業別の集団交渉への体系的な抵抗があり、何年も交渉が続きながら解決されていない事例がある。

[3]鉱業関係など、労使紛争が多発している。これは、労働関係の不安定さの露呈と、90年代から尾を引いている実質的な賃金凍結状態に端を発している。

 

 

 

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*写真は、首都リマのセントロにあるサン・フランシスコ教会前で
ミサのために、多くのカトリック信者が集まっていました。

(1999年11月28日、日曜日に撮影)

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ペルーの宗教:
ローマ・カトリックが89%程であるが、
近年カトリックの数は減少しつつある。

その他の宗教としては福音派プロテスタントが 6.7%など。

スペイン人による征服以来ペルーに住む人々はキリスト教を受容していったが、
それでも先住民の伝統宗教と独自の融合、背反を重ねて現在に至っている。

 

 

 

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*写真は、ペルー国の国会議事堂とボリーバル広場です。

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次に記事は、中南米新聞の編集長・石河照大さんが、2000年11月に書かれた記事です。


正直、勤勉、テクノロジー」をスローガンにして、1990年に日系人として初の大統領に就任したペルーのアルベルト・フジモリ大統領は、東京滞在中の2000年11月20日未明(ペルー時間:19日)に辞任表明しましたが、与野党の勢力地図が逆転したペルー議会は11月21日、フジモリ大統領の辞表の受理を認めず、「道徳的欠如」を理由として事実上、罷免しました。フジモリ第3期政権発足(7月28日)から4か月足らずのことでした。

フジモリ政権崩壊へのカウントダウンは、フジモリ大統領の連続3選出馬の過程で始まったものですが、辞任への直接的な引き金となったのは、大統領の元腹心で”影の実力者”といわれたウダジミロ・モンテシノス国家情報局・顧問(=当時)が議会多数派工作のために野党議員を買収している様子を隠し撮りしたビデオが公開(9月14日)されたことでした。

3期10年4か月に及んだフジモリ政権は、軍部や国家情報局(SIN)を背景として力によるゲリラ掃討作戦で治安を回復し、また、年7000%を超えるハイパーインフレを終息させて経済安定を図り、そして、国営企業の民営化政策と市場開放政策による新自由経済政策(ネオリベラリズム政策)で高度経済成長を達成してマクロ経済面では大きな成果を上げたことは周知の通りです。

しかし他方、フジモリ政権の独裁的な強権体質への批判は高く、また、近年の世界的な経済危機の影響などもあって貧困の拡大や失業率の増加などで国民生活は非常に厳しいのも事実でした。また、フジモリ大統領の連続3選について、ペルー日系社会のフジモリ批判は日本では想像できないほど高いものでした。

ペルー国リマ市の大統領府を見る

 




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*写真は、大統領府の裏側の周辺です。
戦車が銃口を構えて、警備していました。

~~~~ペルーの治安(日本国外務省発表)~~~~~

ペルー:大規模抗議行動に関する注意喚起 (2008/07/18)

1.7月9日、ペルーにおいては、政府の経済政策等に反対して全国労働者総
連盟(CGTP)の呼び掛けによる全国ストが実施されました。ペルー政府は
軍を治安対策のために投入しましたが、マドレ・デ・ディオス州において、州
庁舎が焼き打ちに遭ったほか、ラ・リベルタッド州においては、出産のため妊
婦が救急車で病院に運ばれる途中にデモによる路上の置き石で立ち往生し、同
女性が出産後に病院で死亡するという痛ましい事故が発生しました。その他の
州では治安上の大きな問題はありませんでしたが、7月28日の独立記念日に
向けて、今後もデモやストの動きには注意が必要です。

2.マドレ・デ・ディオス州の状況を受けてペルー政府は、同州の公共機関に
対して破壊行為が行われ、迅速な復旧が必要なことを理由に、13日、同州に
非常事態宣言を発令しました。(期間は7月12日から9月9日の60日間。


3.つきましては、ペルーに渡航・滞在される方は、在ペルー日本国大使館
(在リマ総領事館)やテレビ・ラジオ等から最新の治安関連情報の入手に努める
とともに、可能な限り危険な地域の立ち入りは避け、やむなく立ち入りする際
は安全の確保に細心の注意を払うように努めてください。

4.また、ペルーにおいては、別途「危険情報」が発出されていますので、同
内容についても御留意ください。

(問い合わせ先)
○外務省海外安全相談センター
  住所:東京都千代田区霞が関2-2-1
  電話:(代表)03-3580-3311(内線)2902
 ○外務省 海外安全ホームページ: http://www.anzen.mofa.go.jp/
http://www.anzen.mofa.go.jp/i/(携帯
版)
 ○在ペルー日本国大使館(在リマ日本国総領事館)
  住所:Avenida San Felipe 356, Jesus Maria, Lima, Peru (Apartado N
o. 3708)
  電話:(51-1) 218-1130
  FAX :(51-1) 463-0302

 

 

 






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*写真は、リマのアルマス広場と大統領府の建物です。

1535年、ペルーの都をクスコからリマへ移すと決めた
フランシスコ・ピサロは、スペインのイベリア様式にのっとり、
アルマス広場を中心に町を築いていきました。
現在もアルマス広場は旧市街の中心地です。

広場を囲むように古い建物が残り、それを広場の片隅から、
ピサロの像が見詰めていました。
大統領府の周辺は、警備は厳重でした。

この大統領府の主は、フジモリさんでした。
(1999年11月28日、日曜日)



 

 

 






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*写真は、首都リマのセントロの、サン・マルティン広場です。

中心には、ペルー独立運動に大きな業績を残したサン・マルティン像が
立っていました。ここは市民の憩いの場といった雰囲気です。

かっては、観光案内所、旅行会社が広場周辺に集中し、旅行者にとって
欠かせない場所だったらしいが、現在はほとんどサン・イシドロ地区と
ミラフローレス地区に引っ越してしまい、広場周辺は閑散としていました。

(1999年11月28日、日曜日に撮影)

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1999年11月に、ペルー国を訪問した時の大統領は、フジモリさんでした。
ペルーでは、フジモリ大統領をはじめ、ペルー政財界に多くの人材を輩出し、
その地位を不動のものとしているペルー日系社会ですが、
1999年は、移住100周年でした。

その移民の歴史は決して平坦なものでは無く、初期の貧困の歴史、
そして戦争(第二次世界大戦)に左右された苦難の歴史がありました。

100年前、まだ日本は、明治時代、ハワイ、米国等の移住の後、
南米移住の先駆けとして、ブラジルよりも早い時期にペルー移住が始まりました。
当初の移住は、他の国でも同様ですが、永住を目的にしたものよりも
主に出稼ぎを目的としていて、故郷に錦を飾る事を夢見て
日本を後にするというものでした。
当初の移民は非常に苦労したようで、雨の少ない不毛土地で生活習慣が違う中での
先人の苦労は現代の我々には想像不可能だと思います。

戦前、苦労しながらも真面目な働き振りで財を成した日系人達は
第二次世界大戦で敵国民となり、財産を没収、米国の収容所に送られると
いうような悲惨な体験を経て来ています。

現在では、ペルー日系社会は成熟した社会となり、ペルー社会の各方面で活躍、
なにしろ、フジモリ大統領を生んだほどなのですから、たいしたものです。



 

 

 






*写真は、首都リマのセントロの、サン・マルティン広場です。

中心には、ペルー独立運動に大きな業績を残したサン・マルティン像が
立っていました。ここは市民の憩いの場といった雰囲気です。

かっては、観光案内所、旅行会社が広場周辺に集中し、旅行者にとって
欠かせない場所だったらしいが、現在はほとんどサン・イシドロ地区と
ミラフローレス地区に引っ越してしまい、広場周辺は閑散としていました。

(1999年11月28日、日曜日に撮影)

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1999年11月に、ペルー国を訪問した時の大統領は、フジモリさんでした。
ペルーでは、フジモリ大統領をはじめ、ペルー政財界に多くの人材を輩出し、
その地位を不動のものとしているペルー日系社会ですが、
1999年は、移住100周年でした。

その移民の歴史は決して平坦なものでは無く、初期の貧困の歴史、
そして戦争(第二次世界大戦)に左右された苦難の歴史がありました。

100年前、まだ日本は、明治時代、ハワイ、米国等の移住の後、
南米移住の先駆けとして、ブラジルよりも早い時期にペルー移住が始まりました。
当初の移住は、他の国でも同様ですが、永住を目的にしたものよりも
主に出稼ぎを目的としていて、故郷に錦を飾る事を夢見て
日本を後にするというものでした。
当初の移民は非常に苦労したようで、雨の少ない不毛土地で生活習慣が違う中での
先人の苦労は現代の我々には想像不可能だと思います。

戦前、苦労しながらも真面目な働き振りで財を成した日系人達は
第二次世界大戦で敵国民となり、財産を没収、米国の収容所に送られると
いうような悲惨な体験を経て来ています。

現在では、ペルー日系社会は成熟した社会となり、ペルー社会の各方面で活躍、
なにしろ、フジモリ大統領を生んだほどなのですから、たいしたものです。



 

 

 






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*リマの新市街にある娯楽施設です。カジノ=バクチ場です。

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ペルー移民:
ペルーに最初の日本人が上陸したのは、1898年でした。
以来、3~5万人の日本人が、ペルーにやってきたものの、
多くは過労や病気で倒れて、二度と日本の土を踏むことは、
無かったという。

彼らが残した子供達は2世としてペルーに根付きました。
生活が次第に安定して来ると、勤勉で努力家の日本人は、
ペルー社会で頭角を現してきました。
1990年、日系2世、アルベルト・フジモリさんが、
ペルー大統領になりました。
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ペルーの日系人口は、8万人といわれてきましたが、
この調査は数十年前に行なわれたものであります。
しかも当時、ペルー国外に住む日系ペルー人は、
調査対象とはならなかったうえ、
日本人の血の割合が低い混血の人たちを
あまりカウントしなかったようです。
これらの事実と、その後の自然増を勘案すれば、
現在の日系人口は数十万に達している可能性があるという。
ペルー人口の3%を占めるという説もあるが、
いずれも実数調査がなされていないという。




ペルー国首都リマの新都市地区ミラフローレスを歩いて

 

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*写真は、ミラフローレスの海岸にある「恋人達の公園」です。

恋人達がキスして抱き合っている巨大なモニュメントに驚嘆しました。
この公園では、週末にはコンサートなどが開かれることもあり、
沢山の若者たちが踊りにやって来るという。


~~~~~~日本国外務省発表~~~~

ペルー:非常事態宣言の再延長 (2008/07/16)

1.ペルー政府は、2005年12月23日以降、テロ組織センデロ・ルミノソ
 (SL)が活動しているとされる地域を非常事態宣言地域に指定し、国軍等
 の治安部隊を派遣してSLの掃討作戦を展開しています。

2.この関連で、同国政府は、2008年7月12日、現在非常事態宣言が発令さ
 れている4郡7町(アヤクチョ州:ワンタ郡、ラ・マル郡。ワンカベリカ
 州:タヤカハ郡。クスコ州:ラ・コンベンシオン郡キンビリ町、ピチャリ
 町、ビルカバンバ町。フニン州:サティポ郡、コンセプシオン郡アンダマ
 ルカ町、コマス町。ワンカヨ郡サント・ドミンゴ・デ・アコバンバ町及び
 パリアワンカ町)の非常事態宣言を再延長(期間:7月18日から9月15日ま
 での60日間)する旨発表しました。

3.なお、上記2.の地域以外にも、SLが活動しているとされる3郡2町(ワ
 ヌコ州:マラニョン郡チェロン町、レオンシオ・プラド郡、ワマリエス郡
 モンソン町。サン・マルティン州:トカチェ郡。ウカヤリ州:パドレ・ア
 バッド郡)に対して非常事態宣言が発令(期間:7月5日から9月2日までの
 60日間)されています。

4.つきましては、ペルーに渡航・滞在を予定される方は、在ペルー日本国
 大使館(在リマ総領事館)やテレビ・ラジオ等で最新の情報入手に努める
 など、安全確保には十分注意してください。特に、上記の非常事態宣言発
 令地域には、「渡航の延期をお勧めします。」の危険情報が発出されてい
 ますので、不測の事態に巻き込まれないためにも同地域への渡航は避けて
 ください。さらに、非常事態宣言地域に隣接する地域に渡航する際にも、
 安全確保に細心の注意を払ってください。
  なお、外務省海外安全ホームページには、「海外へ進出する日本人・企
 業のための爆弾テロ対策Q&A」や「海外における誘拐対策Q&A」等のパン
 フレットを掲載していますので、併せて御参照ください
 ( http://www.anzen.mofa.go.jp/pamph/pamph.html )。

5.ペルーには上記非常事態宣言発令地域以外にも「渡航の是非を検討して
 ください。」又は「十分注意してください。」の危険情報が発出されてい
 る地域がありますので、その内容についても十分御留意ください。

 

 

 

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**リマの新市街にあるセントラル公園の柵外では、
青空絵画市場が開かれていました。
なかなか素敵な絵画を即売していました。
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新市街のミラフローレス地区は、高級住宅街です。
旧市街のセントロ地区と違って喧騒はなく落ち着いた街でした。

公園の端にある広場から、放射状に大通りが5本延びていますが、
緑地帯には花が植えられてあって、とても美しい街路でした。

 

 

 

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**写真は、新市街のミラフローレス地区のセントラル公園です。
この公園の一角には、円形コロシアムや観光案内所がありました。
また、周辺には、カテドラル、市役所などがありました。
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ペルーの首都リマ市は、人口8百万人と現在では南米有数の都市に発展しました。
ペルーの政治・経済・文化の中心になっています。
地方の貧困とゲリラの活動の為に、内陸部を逃げ出してリマに出て来る人が
急増して、現在のように国内の3分の1が集中する状況になったそうです。

 

 

 

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*写真は、新市街のミラフローレス地区のセントラル公園の傍らに建つ
キリスト教会=カテドラルで見た結婚式の光景です。

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1999年11月27日、土曜日
昨夜、午後11時ころに、ペルー国リマのホルヘ・チャベス国際空港に着いた。
機内同乗の日系ペルー人のエコノミストから、ペルーの治安について、
詳しい助言があった。夜のリマは危険だという。サン・マルティン広場近辺の
ホテルに宿泊する予定をやめて、ミラフローレス地区のホテルに切り替えた。
空港から、タクシーに乗った。運転手に「ホテル・コンコルド」に行くよう頼んだ。
運転手は、そのホテルはミラフローレス地区の外れにある危険な場所だという。
別の良いホテルを紹介するという。しかし、私はタクシー運転手を信用しなかった。
ホテル・コンコルドに宿を決めた。一泊:15ドル=約1800円だった。

朝食後、新市街ミラフローレス地区のケネディ公園やセントラル公園を散策した。
セントラル公園にあるキリスト教会では、結婚式が挙行されていた。
そして、公園の柵外では、青空絵画市場を開いていた。
ホセ・ラルコ通りを南下して歩いていたら、海の見える公園に出くわした。
公園は「恋人達の公園」と名付けられていた。
公園の真ん中には、恋人たちがキスして抱き合っている巨大なモニュメントが
あった。公園には、2~3組のアベックが楽しそうに語らっていた。
公園近くの海辺の広場では、若者達がハングライダーを楽しんでいた。

昼食は、日秘文化会館で、和食の定食を食べた。それから、日本大使館へ行った。
日本大使館は新しく建設中だった。外観はトーチカ要塞のような形状だった。
旧大使館へも足を伸ばした。
1996年12月17日の夜から翌年・1997年4月22日午後3時23分まで
テロ組織・MRTAの武装グループが占拠した旧日本大使館だった。

 

 

 

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*写真:キト空港では火山灰が約1cm積もっていた。
航空機の機体上で、積もった火山灰を、
箒で掃き落とす空港の航空機整備員の人々です。
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1999年11月26日、金曜日
朝、ホテルのレセプションで、チェックアウトの手続きを
した時に、受付嬢が、外で大変なことが起こっていると言う。

玄関口から外に出たら、あたり一面に火山灰が降り続いていた。
道路には、約1cmぐらいの火山灰が積もっていた。
視界は、200~300m先は、降る灰で、見えなかった。
歩く人影はなかったが、タクシーだけは灰煙をたてて動いていた。

キト郊外のPichincha火山が噴火したのだ。
ホテルの外で、タクシーを拾って、
空港へ駆けつけたが、空港は閉鎖されていた。

航空機は飛ばなかった。空港の建物の中で、朝の10時ころから
午後3時頃まで、飛行機の運行再開を待ち続けたが、結局、
バスに乗って、約2時間かけてラタクンガ空港へ移動した。

さらに、小型機で、グアヤキル空港へ飛んだ。
夜の7時すぎに、Saeta航空機に乗って、ペルーのリマ空港へ飛んだ。

エクアドル国、キトのお祭り風景を撮影する

 

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エクアドルの首都キトの旧市街におけるお祭風景を撮影しました。
(1999年11月25日)

 

 

 

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エクアドルの首都キトの旧市街におけるお祭風景を撮影しました。
(1999年11月25日)

エクアドルの治安概況(日本国外務省発表)
(1)2007年1月15日に就任したコレア大統領は、エクアドル社会の大多数
  を占める貧困層の支持を得て、高い支持率を維持しており、現在のとこ
  ろ、同政権を取り巻く国内の情勢は安定しています。

(2)コロンビアと国境を接するスクンビオス県、カルチ県及びエスメラル
  ダス県の北部地域並びにオレジャアナ県では、コロンビア系反政府ゲリ
  ラ勢力の浸透による凶悪犯罪や、薬物・武器の密輸の増加が問題となっ
  ています。2005年8月には、スクンビオス及びオレジャアナ両県におい
  て住民等が民間石油会社に雇用枠の拡大等を訴え、火炎瓶を投擲した
  り、石油パイプラインを爆破したりしています。また、2008年3月1日、
  スクンビオ県北部の国境地帯において、コロンビア軍が、エクアドル領
  内にあるコロンビアの非合法武装勢力を越境攻撃しました。直後にみら
  れた二国間の極度の緊張状態は改善の方向に向かっているものの、国境
  地帯を中心に引き続き注意が必要です。

(3)首都キト市やグアヤキル市においては、強盗を始めとする凶悪犯罪が
  依然として高い水準で発生しています。その被害は日本人を含む外国人
  観光客にも及んでいます。

(4)2008年1月中旬からの長雨により、全国各地に甚大な被害が発生して
  います。

 

 

 

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エクアドルの首都キトの旧市街におけるお祭風景を撮影しました。
(1999年11月25日)

 

 

 

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*上段の写真は、独立広場のキトの市庁舎前で、
市民たちのお祭の様子・群衆を撮影しました。

*下段の写真は、パネシージョの丘を背景に、
道行くお祭の行列・群衆を撮影しました。
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1999年11月25日、木曜日
キト市街を北端から南端まで走るトロリーバスを、
観光しながら1往復した。そのあとに、
3度目の独立広場を中心に旧市街観光に出かけた。
郵便局で絵葉書を買った。日本の5人に、お便りを
書いて投函した。

独立広場の市庁舎前で、キトのお祭の行列を見物した。
民族衣装を着た行列の中の婦人が、私に
バナナ酒を振舞ってくれた。
お祭の行列が練り歩く約3時間、旧市街の道路では、
トローリーバスや自動車は
走ることことが出来なかったようだ。

 

 

 

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*写真は、エクアドルのキト市のカロリーナ公園です。
この公園の北側、写真の場所に《野口英世像》が存在する筈でした。

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野口英世像について
1918年、当時黄熱病の犠牲者が多く出ていた、エクアドルの
グアヤキルの町にやってきた野口英世は、ここで研究をつづけ、
ワクチンを作り、被害が広がるのを食い止めました。
これを讃えてエクアドル政府は、彼に「名誉大佐」の勲章を
授与しました。

最近、キトの町に、日本の野口英世財団により、
野口英世像が建てられたという。
そこで、1999年版のガイドブックに従い、探しまわりました。

ガイドブックには、
「新市街のカロリーナ公園の北側のAv.NacionesとCalle Japonの
交差点から公園に入って100mほど行った左手に、
《野口英世像》がある」と書いてありました。

観光ガイブックに従って、現地に行きましたが、そこは、写真の場所です。
周辺に住む人々に聞いて回りましたが、その「野口英世像」の存在を
確認出来ませんでした。

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